2018年08月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 75


ルカの福音書17章5節〜10節

前回の 《 連講74回 》 は、主が弟子たちに、3節 「自分自身に気をつけなさい」と警告された二つのことに注目した。

@ 1、2節 《 つまずき 》 の問題。
1節 詳訳は、「誘惑【罪に誘う為に仕掛けられた罠、落とし穴】は必ず来る【何時も付きまとっている】。しかし、それをもたらす【来させる】人はわざわいだ」とある。
「つまずきをもたらす者」に対して、2節b 「・・・海に投げ込まれる」刑罰が相応しいという厳しさであるが、それは、隣人を神に近付かせないからだ。詩篇 73篇アサフの告白を見た。

A 3b〜4節で「兄弟が罪を犯した」場合の 《 赦し 》 の問題。
a. 3節b 「戒めなさい」に従うこと。
親身に関わることによって愛の戒めに叶うと。
b. 3節b’ 「そして悔い改めるなら、赦しなさい」、しかも、4節 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て 『 悔い改めます 』 と言うなら、赦しなさい」に従うこと。
この「赦しなさい」は、相手が赦しを求め、悔い改めることによって初めて成立する恵みであり、この「 『 悔い改めます 』 と言うなら」を見逃してはならない。主は「悔い改めます」と言って来るならば、一日に何度であってもと。
何故なら、既に私たちが、主の 《 十字架による無代価で与えられた赦し 》 を経験させて頂いているからである。
これら赦しの根拠は、ヨハネの手紙 第一 4章7〜12節 「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」だから。

※ これらの警告は 《 主の愛で生きる者 》 への招きであると。


今朝は、主から 《 二つの警告、つまずきをもたらす者にならないこと & 罪を赦す者となるように 》 を受けた弟子たちが、5節 「私たちの信仰を増し加えてください」と尋ねた時に答えられた主のおことばに学びたい。
弟子たちから、こうした質問が出て来たことは幸いです。
つまずかせ兼ねない自らの現実があり、赦すことの難しさを覚えたからではと考えられる。現に、マタイの福音書 19章13、14節を見ると、主のみもとに連れて来られた子どもたちを叱っており、主から、「わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」と注意されているのだから。
お互いも又、味わったおことばがこの一週間、実践する上でどうだったのだろうか ?
その弟子たちの質問は、無力な原因を 《 自らの信仰不足 》 から出たものと思ったようだ。しかし主のお答えは、6節 「からし種ほどの信仰があれば」と、信仰の量的問題ではなく、質的問題、即ち、どのような信仰で生活しているかにあった。
からし種は、マタイの福音書 13章32節 「どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作る・・・」とあり、持っている信仰に 《 健全な生長を遂げるいのち 》 があるかどうかが問われている。
( ルカの17章に戻って )もしあなたがた持っている信仰にいのちがあるならば、ありさえすれば、そこに、6節b 「この桑の木に 『 根元から抜かれて、海の中に植われ 』 と言うなら、あなたがたに従います」という 《 信仰による結実 》 を見ることになるのだと。

健全な成長を遂げる、即ち、主の語られるところに生活させる 《 いのちある信仰 》 とは ? 主は、7〜9節 《 主人に仕えるしもべ 》 の姿を持ち出されて、10節 「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『 私たちは取るに足りないしもべです・・・ 』 と言いなさい」に従った信仰だと。

@ 「取るに足りないしもべ」と言う者だろうか ?

探られる幾つかの場面がある。7節 「野から帰って来たら、『 さあ・・・食事をしなさい 』 と言うでしょうか」と、労( ねぎら )いのないこと。
8節 「むしろ、『 私の夕食の用意をし・・・ 』 と言うのではないでしょうか」と、しもべには、次の仕事が待っており、言い訳なしに仕えることが求められていること。
又、8節b’ 「 『 ・・・おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい 』 と言うのではないでしょうか」と、全ての求めに応じて後に初めて、自らの必要を満たすことになること。
しかも、9節 「しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか」とは、したことへの報い( 感謝されることすら )を当てにしないこと。
更には、10節b 「 『 ・・・なすべきことをしただけです 』 と言いなさい」とあるように、したことは当然で特別ではなく、有り難がられたり、褒められたりされるようなことでは全くないとする謙虚さが求められている。
「取るに足りないしもべ」との告白は、これらの扱いに甘んじられる者のみが口にすることの出来る告白なのだが、私たちはどうだろうか ?

A 「取るに足りないしもべです」と言わせないのは何 ?

それは、これら日常茶飯事の場面で甘んじられないとする 《 内的・霊的 》 問題、即ちプライドである。
主の最後の晩餐での出来事、ヨハネの福音書 13章1〜5節は実に、このことを明らかにしているのでは ? ここでしもべとなって、弟子たちの足を洗われたのは主であって、弟子たちではなかった。主が立ち上がられるまで、誰一人として兄弟たちの足を洗おうともせず、主の足をすら !! この場での弟子たちの会話は、この時ですら、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか・・・ ルカの福音書 22章24節」だったのだから。

B 「取るに足りないしもべです」と言える者となるには ?

主が、10節 「同じようにあなたがたも、・・・言いなさい」と言われても、そのようには出来ない自らの現状・現実を認めて謙ること。
その上で、ルカの福音書 22章25〜27節 「・・・しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」という生涯を送ってくださった事実に目を向けること。
誰の為 ? 私に仕える者となってくださったのは、ピリピ人への手紙 2章5〜11節 「・・・ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。・・・すべての舌が・・・告白して・・・」と、私たちの救いの為にである。しもべの姿を取らせない頑( かたく )なな自我を十字架につけて清めに与り続けることである。

※ その様にして初めて、隣人への愛に生きる者とされる。

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2018年08月21日

ペンテコステ記念礼拝


使徒の働き2章37節〜47節

今朝は、2章1節 「五旬節【大麦の初穂の束を捧げる日から数えて50日目( 復活後50日目 )、小麦の刈り入れの祭・初穂の日と呼ばれる、ユダヤ人が祝う三大祭の一つとして記念されていた日】」に、聖霊が注がれた画期的な出来事を記念する礼拝であるが、この出来事が、折しも三大祭の一つとして記念される日に起こったことは偶然ではない。
それはこの祭りの為にと、5〜13節 「天下のあらゆる国々から来て住んでいた」人々の目撃するところとなったからである。目撃者たちの反応は 《 6節 「呆気にとられ」、7節 「驚き、不思議に思って」、8節 「いったいどうしたことか」、11節 「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」、12節 「驚き当惑して」、13節 「だが、『 彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ 』 と言って、嘲( あざけ )る者たちもいた」 》 という興奮状態である !!
《 どのような意味で、画期的な日 》 なのか ?
単に、キリスト教会において重要事だというのではなく、実は人類にとって祝福の日となったからである。
このことについて、十字架の死から復活された主が、弟子たちに語られた ※ ルカの福音書 24章44〜49節で明らかである ⇒ 47節 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことになったからである。
主の弟子たちは、聖霊を授けられさえすれば証人となって出て行く為に備えられていた人々だったから。
何と !! 待ちに待たれていたその日が、2章1〜4節 「・・・すると皆が聖霊に満たされ・・・」と、ここに来たのだ。

そして、41、42節 「その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」と、ここエルサレムに教会の産声が上がった記念日なのだ。
こうして聖霊に満たされた弟子たちと教会が、当時の世界を制覇していたローマ帝国( 皇帝礼拝を強いる )を相手に、迫害をものともせずに福音宣教を開始した日でもある。
そして今日までの二千年間( この世の勢力に屈することなく )教会は、1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」が現実となり、全世界は福音を知ることになったのだ。
世界の言語約7000( 3300翻訳あり/2450進行中/1800未 )。
残念ながら、宣教の働きが最も盛んだった 《 宣教時代と言われた18、19世紀 》 後の20、21世紀は ?
ヨハネの黙示録 3章14〜22節 「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、・・・だから熱心になって悔い改めなさい」との警告があり、宣教の終わりを急いでいるのが今日なのだ。

しかし今朝は、こうした主の警告を耳に留めつつ、世界がこの画期的な日を迎えて、今、宣教の責任を担っている教会である私たちは、今日までの宣教が許されて来た 《 初め 》 に注目して挑戦を頂きたい。

@ 聖霊に満たされたペテロの存在。

ペテロが、14節 「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい」と、声を張り上げて語っているとは、人間的にはとてもとても考えられない光景 !!
何故ならば、ペテロは、主が捕縛されて裁判に向かわれる途中、主の行方を案じて後を追う時のこと、「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」、「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と声を掛けられて、滅相もない、「嘘ならのろわれてもよい」と誓い始め、「そんな人は知らない」と叫ぶ臆病者だったのだから( マタ 26・69〜 )。
ペテロには、主を命懸けで守ろうとの熱意は人一倍あったが、いざその機会を迎えるに及んでは、その情熱は跡形もなく消え失せ、自らの命を守る為に主を否んだのだから。
あの時のペテロを知っている人々の内、一体誰が、この力に満ち満ちたペテロを想像することが出来ようか !!
ペテロは変えられたのだ。あの拒絶の日から、日数的には、たった50日余りしか経っていない。何が彼を変えたのか ?
聖霊に満たされたという理由しかない。
ペテロの側でしたことは唯、1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に従っただけ。ということは、3節で復活された主を経験したからといって、その喜びのまま出掛けずに、先ずは聖霊を受ける経験に与ることだった。
聖霊の満たしの為には 《 空しくなること ⇒ ペテロは主を否んだ時、自らの自己中心性を激しい痛みの中で思い知らされ、自信が打ち砕かれ、徹底的な悔い改めに導かれることとなった 》。
聖霊経験は、この痛みの経験に比例している。宣教の鍵は、教会に何人、聖霊に満たされた人がいるのか ? にある。

A 心を刺されることを知った人々の出現と存在。

聖霊に満たされたペテロの説教は、聞く人々の心を刺した。3節 「炎のような舌が」とあるのは、聖霊の働きが 《 人々に熱と光 》 の作用をもって臨むことの象徴である。
彼らは、37節 「どうしたらよいでしょうか」と叫ばずには居られなくされた。取り返しの付かないことへの恐怖、このままでは生きて行くことが出来ないとの不安感に襲われた。
自らの正体を暴かれることは恐怖であるが、今生きている間に自らを知って、38節 「悔い改め」に与る者は幸い。何故なら、やがての日があるから ⇒ へブル人への手紙 9章27、28節。

B 生きた教会の存在。

心刺された人々は、41〜47節 「バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた・・・神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」との教会生活を始めた。

※ 間もなく、この群れを妬む宗教家たちによって迫害されることになるが、初代教会に始まった宣教の火は消されずに燃え続けて今日に至っている。私たちも責任を担って派遣を。

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2018年08月13日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 74


ルカの福音書17章1節〜4節

先週は、16章14節 「金銭を好むパリサイ人たち」の金銭を愛する生き方の結末がどうなるのかを明らかにして、主が彼らに警鐘を鳴らされた記事に学んだ。
この事実に、ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」の聖句を解説と見て考えた。この聖句の「死」は、《 肉体の死 》 のことではなく 《 彼らの肉体の死後、何処に身を置くのか ? 》 即ち、ルカの福音書 16章23節、《 よみ ⇒ ※ 「ハデス」という「死」 》 か、《 ラザロが居る ※ 22節 「アブラハムの懐」 》 か、であると。

@ 富める者の生き様は ?
19〜21節に明らか。ヨハネの手紙 第一 3章17節 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」とある。隣人に対する無関心さ。
その自己中心は、自分の為には、24節 「私をあわれんでラザロをお送りください」、27〜31節 「ラザロを私の家族に送ってください」と求める厚かましさにも現れている。

A この恐るべき自己中心の罪が「報酬は死」との結果を。
24節 「私はこの炎の中で苦しくてたまりません」、25節 「苦しみもだえている」とは、黙示録 21章8節に出て来る「第二の死」で、永遠の悔いの中で生き続ける。

※ ローマ人への手紙 6章23節 「罪の報酬は死です。しかし」とは驚くべき贖( あがな )い !! 主の言われた ※ 「わたしは渇く」とは( ヨハ 19・28 )、私たちに代わって神の呪いを味わわれた地獄の叫び。自らの罪を悔い改めた者が永遠のいのちに与る為の叫びとは !! と。


今朝は、主が弟子たちに、17章3節 「自分自身に気をつけなさい」と仰って警告された二つのことに注目したい。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです」と、3節b 「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい」とで、お互いの身近な今日の問題として注意深く学びたい。

@ 1、2節 《 つまずき 》 の問題。

1節 詳訳は、「誘惑【罪に誘う為に仕掛けられた罠、落とし穴】は必ず来る【何時も付きまとっている】。しかし、それをもたらす【来させる】人はわざわいだ」とある。
主が言われたこの「わざわいだ」という言葉は、霊的滅亡をもたらすかなり厳しく強い意味を持っていると言われているが、この事実を裏付ける聖句が、2節 「・・・海に投げ込まれるほうがましです」、即ち、「それが相応しい」とある限り、実に、厳しい刑罰なのだ。二度と海面に引き上げられることはない極悪の者としての扱いがここにある。
「つまずきをもたらす者」とは、相手【ここでは、「これらの小さい者たちの一人を」とあるが、未だに支えを必要としている人々】 に罪を犯させる者の意。主は、弟子たちに、そのような人にならないようにとの警告を与えられた。
何故、「つまずきをもたらす者」に対する報いが厳しいのか ?
隣人を神に近付かせないからだ。11章52節 「わざわいだ、律法の専門家たち。・・・自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」とある、ここに理由がある。
詩篇 73篇にアサフの告白を見てみたい。1、2節で彼は、神に不信感を抱き、「私の歩みは滑りかけた」と言っている。3節 「それは・・・」と、あたかも神を畏れない人々が祝福を受け、神の子らがむしろそうではないからだ ⇒ 12節 「彼らはいつまでも安らかで、富を増している」、ところが、14節 「私は、休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた」と。
その時、アサフは “ はっ ” とした。15節 「もしも私が 『 このままを語ろう 』 と言っていたなら  きっと私は  あなたの子らの世代を裏切っていたことだろう」と。神への疑いを自分の内に秘め、それを口にしなくて良かったとの安堵感。17節 「ついに私は神の聖所に入って」神の真実を知ったというのだ。彼の隣人に対する魂の重荷が、彼をして「つまずきをもたら者」とならずに、乗り越えさせたのだ。

A 3b〜4節 《 赦し 》 の問題。

主は「兄弟が罪を犯した」場合の在り方を語られた。
a. 3節b 「戒めなさい」に従うこと。
1節 「つまずきが起こるのは避けられませんが」とあることから、誘惑に負けた兄弟に対する態度としての忠告である。
マタイの福音書 18章15〜20節では、「行って二人だけのところで」、「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に」、「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい・・・」と、何と、懇( ねんご )ろな係わりを進めていることか !
何故なら、そうすることによって魂を神に導くことこそ、教会に与えられた責任であり、その祈りは答えられるから。
ガラテヤ人への手紙 6章1、2節では、「もしだれかが何かの過ちに陥( おちい )っていることが分かったなら・・・柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」とあり、ここにこそ 《 主に在る愛の実践 》 があると言っている。
親身に関わることが愛の戒めに叶うと。
b. 3節b’ 「そして悔い改めるなら、赦しなさい」、しかも、4節 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て 『 悔い改めます 』 と言うなら、赦しなさい」に従うこと。
この「赦しなさい」は、相手が赦しを求め、悔い改めることによって初めて成立する恵みであり、この「 『 悔い改めます 』 と言うなら」を見逃してはならない。主は「悔い改めます」と言って来るならば、一日に何度であってもと。
何故なら、既に私たちが、主の 《 十字架による無代価で与えられた赦し 》 を経験させて頂いているからである。
ヨハネの手紙 第一 4章7〜12節 「私たちは互いに愛し合いましょう・・・私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥( なだ )めのささげ物としての御子を遣わされました・・・神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」と。

※ これらの警告は 《 主の愛で生きる者 》 への招きである !!

posted by luckyfachan at 23:03| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする