2018年07月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 71


ルカの福音書16章1節〜13節

先週は、主が ※ 15章の三つのたとえをもって、1、2節で「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と憤慨したパリサイ人・律法学者たちを、32節 「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」と窘( たしな )めて、兄息子に自らの正体を見せた、彼らの知るべきことについて考えた。
@ 28節 「すると兄は怒って・・・」、29節 「ご覧ください」に・・・
a. 「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」に見る自己義の主張を。
戒めの中心は愛 !! 彼には、外面的な正しさがあっても、恩着せがましい義務感でしかなく、肝心な愛がないのだ。
b. 「その私には・・・下さったこともありません」に見る盲目。父の ※ 31節 「・・・私のものは全部おまえのものだ」とは事実なのだ。彼が「友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹」を屠( ほふ )らなかったのであれば、それは単にそうしない事をもって敬虔とする彼らの主義に過ぎない。にも拘らず、それを父の出し惜しみ ? 不公平 ? によるものと責め立てている。ここには、微塵も与えられている恵みへの感謝がない。
c. 30節 「それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした・・・そんな息子・・・」に見る弟への冷淡な断罪。
d. 32節 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り・・・」に見る父の持つ魂への重荷がない。

A 自らも又同様、父に立ち返るべき罪人であり、尋ね出て頂かない限り、「生き返」ることの出来ない者であることを。

※ 自らの無知に目覚め、内なる清めに与り続けたい、と。


今朝は、主がパリサイ人・律法学者たちに向けて、彼らの自己義故の排他的過ちを扱われて後、1節 「弟子たちに対しても」と、1b〜8節 「ある金持ちに一人の管理人がいた」と始められたたとえ話から 《 重要な教訓 》 に学びたい。
この物語の結論は、8節 「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」にあるが、その彼は、1節c 「主人の財産を無駄遣いしている」という不正行為が発覚したことにより、主人から「管理を任せておくわけにはいかない」と宣告されていた人である。
何と !! 驚くことには、彼を解雇しようとしていたその主人が、その彼を【「賢い」、詳訳 : 抜け目のない( 用意周到な )やり口】で今後に備えたとして「ほめた」というのである。
この話は、明らかに主人の財産を無駄遣いしていたという悪事に加えて、更に悪事を犯したからというので咎( とが )められずに、むしろほめられているとは !!
主が、このたとえ話をもって弟子たちに教訓を与えようとなさるのは ? と理解し難く感じられなくもない箇所であるが、8節b 「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである」と主が仰っておられる意味を考えるならば、決して疑問視する必要はない。
主がたとえ話をもって、弟子たちに伝えたいとされたことは、主人が驚きほめざるを得なくされた 《 管理人の抜け目なさ 》 にある。主人が管理人を「ほめた」のは、管理人の不正行為では勿論なく、そうまでして自らの将来を見越して取った行動の抜け目なさへの感心・感服である。

弟子たちが学ばなければならなかったこととは、この管理人のようであること。管理人は、3、4節で「どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ」と考えて、自らの将来に備えて賢く、迎えてくれる友人を作っておこうとした。
即ち弟子たちにとっての自らの将来とは、やがて召される天であるが、その天の日に備えて、管理人の賢さに学びなさい、にあった。

@ 9節 「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」。

「不正の富」とは、「富」そのものが悪ではないが、しばしば、人々の肉欲によって「不正」に扱われることの意。「富がなくなったとき」とは、文脈から【死んだ時】を意味し、生きている間に用いるべく預けられている「富」を使い果たしたことを意味する。
ということは、「富」は地上に蓄えるものではないことの暗示で、マタイの福音書 6章19〜21節と重なる。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。・・・天に宝を蓄えなさい・・・」となり、地上で与えられた「富」を、隣人の魂の救いの為に用いることが意味されている。天で迎えてくれる人々こそが、その「富」を用いて救われた人々ということになると。

A 10節 「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です」、11節 「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか」、12節 「また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか」。

次に主は、天で迎える〈 友がいるのか、いないのか 〉の問題から更に一歩進んで、その「不正の富」の用い方における忠実さの如何は、弟子たち自身の霊的いのちの有無に関係する重要な問題だとされた。「最も小さなこと」とは「不正の富」で 《 地上的な物の全て、「他人のもの」即ち、金持ちが自分の財産を管理人に任せた物で、主が地上生活上弟子たちに任せられた全てのもの 》 を意味し、「大きなこと」とは「まことの富」で 《 霊的な富、天的な富 》 を意味する。
地上生活における忠実さが天における霊的祝福に通じる。

B 13節 「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」。

預けられた「富」は、神と並べるべきではなく、神の御心に従って用いられるべきであるとの警告である。

※ 主の聖前に真の「賢さ」に生きる者であるのかの吟味を !!

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2018年07月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 70


ルカの福音書15章全

先週は、14章のテーマだった神の国への招きに応じて「食事を味わう者」とは 《 主の弟子となる者 》 のことと学んだ( 14章25〜35節 )。
先ず、弟子としての姿勢について、世の常識的事柄を引き合いに、28〜30節 「塔を建てようとするとき」、31、32節 「ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」と、何れも 《 完成を目指し、或いは勝利を考えて 》 真剣な態度で臨むではないか。まして 《 神の国に招かれた者ならば、その光栄感の故に、もっと本気に 》 臨む態度が吟味される必要があるのだと。

@ 26節 ⇒ 主と私との関係には、どんなに親しい間柄にある肉親であっても入れてはならないこと。

A 27節 「自分の十字架を負って」主について行くことに。
「自分を捨て」ることで、隣人の救いの為に、自らの権利を主張せず、自らを空しくされた主の在り方こそ模範 !!

B 33節 「自分の財産すべてを捨て」ることに。
コリント人への手紙 第一 13章2、3節 「私が持っている物のすべてを分け与えても・・・愛がなければ、何の役にも立ちません」の聖句から、財産そのものを捨てることの意ではなく、もっと私たちの心の深い奥底での完全な明け渡しの意であることが分かる。実に、ゲッセマネの主の「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」である( ルカ 22・42 )。
その上で「自分の財産すべてを捨て」るとは ? 私の存在の一切であり、今の意思、行為、持てる物【時間、金銭、賜物】に対する聖父の求めに従わせる愛に他ならない。

※ ここに生きる時、34節 「塩気」を持つキリスト者となり、「地の塩」として生きつつ、「神の国」に備えさせる、と。


今朝の記事は、著名な画家たちの手によって感動的に描かれている物語の一つ。特に、レンブラントの絵の前に釘付けにされて瞑想したヘンリ・ナウエン著 『 放蕩息子の帰郷 』 は、私たちの主の聖前における在り方に、強烈な光を当ててくれているので、未だの方は是非読んで欲しい。
この15章に出て来る 《 三つの話、4〜7節 ※ 百匹のうち失った一匹を捜し当てて喜ぶ羊飼い、8〜10節 ※ 10枚の銀貨のうち失った一枚の銀貨を捜し見つけて喜ぶ女の人、11〜32節 ※ 二人の息子のうち失った弟息子が帰って来たことを喜ぶ父親の話 》 は、1、2節 「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『 この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている 』 と文句を言った【詳訳 : 憤慨して不満を漏らすことを止めなかった】」ことを受けて、3節 「そこでイエスは」と、彼らに話されたもの。
即ち、話の骨子は、あなたがたも礼拝しているとする神は、この物語の 《 羊飼い、女の人、父 》 であり、あなたがたが嫌悪し冷酷に扱っている罪人たちは、この神によって喜び迎えられている、というもの。32節 「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」と。
主は、彼ら自らが 《 これぞ信仰だ !! 》 と自負し豪語している態度を根底から見直すようにと、扱われたのだ。
そして主はズバリ、三つ目のたとえ話に出て来る「兄息子」こそ、あなたがただと突き付けられたのだ。

兄息子 《 パリサイ人、律法学者 》 が知るべきこと !!

@ 28節 「怒って、家に入ろうともしなかった」自らの正体を、である。

この怒りが何処から ? 29節の言い分から見える。
a. 「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」に見る自己義の主張。父に仕えてはいても単なる義務的なものでしかなく、愛とは無縁のもの。コリント人への手紙 第一 13章3節 「たとえ・・・分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません」とあり、行為としての労苦の有無ではなく、同 4節以下の愛の有無にしか、価値はないと知る時、何と虚しいことか !! 父への恩着せがましさには愛は無い。「戒めを破ったことは一度も」ないとは、何という自信。戒めの中心は愛 !! 彼には、外面的な正しさがあっても、肝心な愛がないのだ。
b. 「その私には・・・下さったこともありません」に見る盲目。父が断乎として言い切っている ※ 31節 「・・・私のものは全部おまえのものだ」が事実なのだ。「友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹」を屠( ほふ )って食べなかったのであれば、それは単に、自分の主義によるものに過ぎなかったことになる。にも拘らず、いざ、祝宴が開かれている光景を見た時には、そうしなかったのは、あたかも父の出し惜しみ ? 不公平 ? によるものであるかのように責め立てている。
パリサイ人のする宗教的行事が、唯、敬虔であるとの評価を得たいが為のものでしかないことに顕著。
ここには、微塵も与えられている恵みへの感謝がない。
c. 30節 「それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」に見る弟への冷淡な断罪。
身を持ち崩して帰って来た弟は、自分の弟ではない。あなたの息子かも知れないが、少なくとも最早、私の弟ではないと。どんなに自らの放蕩を悔いて帰って来たとしても、父への無礼には、裁きであって赦しではない。
よりによって「肥えた子牛」とは !! とんでもない !!
d. 32節 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り・・・」に見る父の持つ魂への重荷がない。
20節 「・・・ところが、まだ家までは遠かったのに・・・彼を見つけて・・・駆け寄って・・・口づけした」父親が、来る日も来る日も、もしかして今日帰って来るかも知れないとの期待をもって待っていたが、兄には、弟を待つ重荷はなかった。

A 自らも又同様、父に立ち返るべき罪人であり、尋ね出て頂かない限り、「生き返」ることの出来ない者であることを、である。

弟息子に駆け寄った父は、兄息子をなだめる為に、28節 「出て来て」とある。私たちは皆、羊飼いに、又女の人に父同様「捜し」に出て頂かない限り、帰るべきところに帰ることの出来ない 《 失われた者 》 なのだ。

※ 余りにも自らを知らないことの愚かさに目覚め、死んでいた者を尋ねていのちを捨てて下さった主に感謝したい。

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2018年07月14日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 69


ルカの福音書14章25節〜35節

《 連講68回 》 では、主が ※ 14章1節で食事に招かれていた場面でのこと、15節b 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」との声に答えられたおことばに学んだ。
「神の国」での食事とは、黙示録 19章9節 「子羊の婚宴」であるが、( ルカに戻って )話の結論は、24節 「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」とは、厳粛。
その人々とは、全世界の祝福の基となるべく召され、神の言葉を預かり、福音が委( ゆだ )ねられた選民ユダヤ人のこと。
同時に救いに与った私たちのことだとして、警戒した。

@ 警戒すべき姿勢は、18節 「畑を買ったので」、19節 「五くびきの牛を買ったので」、20節 「結婚したので」と、それぞれが、招待を辞退する口実を述べて応じなかった 《 招きを日常的な事柄よりも劣るとした侮り 》。

A この無知の致命的、根幹的問題は、主人への「どうか、ご容赦ください」という感覚にも明確。
怒っている主人、主人は聖父の心であり、招かれた人が祝福に与り損ねることへの悲しみによる憤慨であり、主人である聖父ご自身の損失を思ってのことではない。
このことが分かっていないことに問題がある。
三人目の結婚した人だけに、その言葉がないのは ? 多少、自らの損失だとの霊的理解がありながらも、伴侶者との関係で葛藤し、勇気がなかった為か ? 何れにせよ、主の ※ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム」との嘆きは、自ら滅びを招く民を憐れんでの号泣なのだ。

※ 「まず神の国と神の義を求めなさい」に従いたい !! と。


今朝は、主が、14章24節 「私の食事を味わう者は一人もいません」といわれた人々が、どの様な理由でそうなったのか、逆に、どの様な人々が、招きに応じて 《 子羊の婚宴の席に迎え入れられるのか ? 》 と話された後のこと、今度は、この神の国の招きに応じて「食事を味わう者」とは、実は、26節 「・・・なら、わたしの弟子になることはできません」、27節 「・・・来ない者は、わたしの弟子になることはできません」、33節 「・・・なければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」と、もっと厳密に話を進めて「・・・なら」と、条件を満たして 《 主の弟子となる者が 》 と示唆して語られたおことばに学びたい。
13章24節では「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです」とも語られていたが、民の危機感のなさ、いい加減さを憂えておられる重荷からの通告に重ねて、ここに主のエルサレム行き最後の旅での最終的通告がある。
14章では先ず、弟子としての姿勢について語られるのに、世の常識的事柄の中から二つのたとえをもって諭された。
a. 28〜30節 「塔を建てようとするとき」の話では、当然のことながら、建築に必要な経費の予算を組んで取り掛かるのであって、決して、予定が立たないのに建て始めるという行き当たりばったりということではない。
b. 31、32節 「どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」の話では、敵の勢力に勝ち目があるのかどうか、しっかり検討する。

主がこの例話を話された意図は ? 何事かに携わる時には、《 完成を目指し、或いは勝利を考えて 》 用意周到に臨むことだろう。決して 《 未完成でも、負けても良い 》 といういい加減な態度ではなく、真面目な、真剣な態度で臨む。
地上的事柄においてさえ、そうであるのだから、尚のこと、塔を建てようとする人以上に、戦いに挑む王以上に、《 神の国に招かれた者ならば、その光栄感の故に、もっと本気に 》 臨む態度が吟味される必要があると。

その備えの為の実際的な示唆は ?

@ 26節 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら」に。

この「憎まないなら」とは、人を憎悪するの意ではない。マタイの福音書 10章36、37節 「そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも 父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも 息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」とあるように、《 主と私との関係に、どんなに親しい関係にある肉親であっても、入る事があってはならない 》 の意。
この忠告に何が示唆されているだろう ? 主に従う生活は、最も身近な人に理解されない時、その人たちが「敵となる」という悲しい現実に遭遇するのが常。他人から理解されない場合には生じなくて済む情的な感情が伴う為、信仰が試される。特に、「父、母」の場合には、扶養の身であるとの厳しさがあり、「妻」とある場合、主に在る結婚であるかが問題になる。

A 27節 「自分の十字架を負って」主について行くことに。

この「十字架を負」うとは、マタイの福音書 16章24節 「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」に説明されている。「自分を捨て」とは、隣人を救う為に、自分の権利を主張せずにご自身を空しくされた主の在り方こそ模範 !!
主がペテロに語った( ヨハ 21・15〜 )、「あなたはわたしを愛していますか」に見る 《 自己死 》。ペテロのご自身への拒絶による思いを死なせ、ペテロの立ち直りにのみ関心を抱くことに見る。

B 33節 「自分の財産すべてを捨て」ることに。

コリント人への手紙 第一 13章2、3節 「・・・愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても・・・」とあるように、「財産すべてを捨て」と言う時、財産そのものを言っているのではないことが分かる。もっと私たちの心の深い部分における完全な明け渡しを意味する。
この意味を的確に言い表す聖句は、ゲッセマネの園で祈られた( ルカ 22・42 )主の、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」であり、聖父への完全な意思の明け渡し。
「自分の財産すべて」には何が ? 私の存在の一切であり、今の意思、行為、持てる物【時間、金銭、賜物】に対する聖父の求めに従わせる愛に他ならない。

※ ここに生きる時、34節 「塩気」を持つキリスト者となり、この世の「塩」として生きつつ、「神の国」に備えさせる。

posted by luckyfachan at 11:22| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする