2018年06月22日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 68


ルカの福音書14章15節〜24節

先週は、主が、1節 「パリサイ派のある指導者」の招きに、悪質な魂胆と敵意によるものと知りつつ応じられた場面で、その彼らを扱う 《 主の魂を愛して止まないお姿 》 に学んだ。

@ 主の ※ 3節 「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」の質問に見る。
彼らは律法を解きながら、律法の心 《 主を愛し、隣人を愛すること 》 とは裏腹だった。自分の利害の為に、安息日に動くことはあっても、隣人の窮状には、「いかなる仕事もしてはならない。 出エジプト記 20章10節」を文字通り適用して助けず、助ける主を非難する 《 極めて利己的な身勝手さ 》 を扱われた。

A 7節 「客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された」に見る。
この 《 優越感に浸る高慢 》、さもしい態度に痛んで扱われ、祝福の原則は、11節にあると教えられた。

B 12節 「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。・・・貧しい人たち・・・を招きなさい」に見る。
パリサイ人たちの善意に潜んでいる 《 動機における不純 》 にメスを入れられた。言うまでもなく、前者を招いてはいけないの意味ではなく 《 招く動機を問題 》 にして扱われた。
パリサイ人の善意が、いつも、12節d 「彼らがあなたを招いて、お返しをする」その報いを求める動機によるものだったから。

※ 憎しみの眼差しを向ける人々からの不純な招きにも動じることなく、むしろそれと知りつつも、彼らへの愛の故に応じられる主の真実を覚えて、主に従う者でありたいと。


今朝は、前回と同じ場面でのこと、食事に招かれていた一人が、15節 「・・・これを聞いて、イエスに言った。『 神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。 』 」に、主が答えられたおことばに学びたい。
これまでの主の人々を扱われるおことばに共鳴してか ? 特に主が、14節 「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」と言われたおことばを聞いて、好奇心を掻き立てられたのか ? 彼の、15節b 「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」とは、今まで心に抱いていたユダヤ人信仰の反映と思われる。
「神の国」での食事とは ?
ヨハネの黙示録 19章1〜9節、ヨハネがパトモス島で見た幻、人類にとって最も輝かしいクライマックスに向かう序曲のような場面である。19章1節 「その後」と、前章 21節の「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ・・・」という悪への神の裁きがなされた光景とは打って変わっての対照的な光景として出て来る。
合わせて学んでおきたい。この「神の国」に対応して「獣の国」が存在するが、「神の国」は神の支配、「獣の国」は、黙示録で「竜」として登場するサタンの支配する国。サタンは、政治的権力としての「獣」、宗教的欺瞞( ぎまん )としての「にせ預言者」、経済的誘惑としての「大バビロン」によって、世を堕落させる存在。これらの悪の力が、見事に神の鉄槌を受けるという出来事が起こった※19章1節 「その後」の幻 !!
旧約時代から待ち焦がれたメシア・キリストによる「神の国」の到来を前にして、「子羊の婚礼の時」を迎える場面。
ここに、「ハレルヤ。・・・神をほめたたえよう。」との光栄ある勧めとともに、9節 「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ・・・」との招きに与ることになるのだ。

ここで主は、彼の15節を受けて、ご自身の重荷としておられることを語らざるを得なくされた。それは、このたとえ話の結論である ※ 24節 「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」で明確。
それは、誰を指して ? 17節 「招いていた人たち」、直接的にはユダヤ人指導者たちであり、全世界の祝福の基となる為に召されていた、先ず神の言葉を預かり、福音が委( ゆだ )ねられた選民ユダヤ人のこと。
この事実を痛みながら、主は、この宴会に招いた主人のように、聖父は、21節 「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たち」、即ち、指導者たちから蔑( さげす )まれている取税人や遊女たちを招き、更には、22節 「まだ席があります」と聞いて、23節 「街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て・・・」と、異邦人を招かれたと伝えられた。
ここで私たちは、主人が「招いていた人たち」とは、救いに与った私たちのことだとして、警戒したい。何故なら、既に私たちは、主の十字架によって神の子とされ、「神の国」を待ち望んでいる霊的選民だからである。

@ 警戒すべき姿勢は、あくまでも、招かれた「宴会」の意義を理解していない怠慢、無知である。

18節 「畑を買ったので・・・どうか」、19節 「五くびきの牛を買ったので・・・どうか」、20節 「結婚したので・・・」と、それぞれが、招待を辞退する口実を述べて応じなかった。
この招待は、17節 「招いていた人たち」とあることから、その「宴会」に出席する為に予定を組むべきだった。しかも、その当日、再度しもべが遣わされた時に断わっているとは !!
招かれた「宴会」を日常的な事柄よりも劣るものとし、「宴会」を侮るという悲しむべき浅はかさである。

A この無知の致命的、根幹的問題は、主人への「どうか、ご容赦ください」という感覚である。

確かに主人は怒っているが、「神の国で食事をする人は」と言ったことを意識して話された事から、主人は聖父の心であり、招かれた人が祝福に与り損ねることへの悲しみであり、主人である聖父側の損失を思ってのことではない。このことが分かっていないことに問題がある。
三人目の結婚した人だけに、その言葉がないのは ? 多少、自らの損失だとの霊的理解がありながら、伴侶者との関係で葛藤しながら、勇気がなかった為か ? 何れにせよ、主の ※ 13章34、35節 「エルサレム、エルサレム」との嘆きは、自ら滅びを招く民を憐れんでの号泣なのだ。

※ 主の、「まず神の国と神の義を求めなさい」に従いたい !!

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2018年06月16日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 67


ルカの福音書14章1節〜14節

先週は、エルサレム行きの旅もかなり南下しつつのヨルダン川の東、ヘロデ・アンティパスの領土内でのこと、主を支持するユダヤ人による暴動に警戒した為か ? 31節の退去の伝言に、主の ※ 32、33節 「狐( きつね )にこう言いなさい」の心に学んだ。

@ 32、「行って、あの狐にこう言いなさい」と言い放つ 《 魂への責任感をお持ちの主 》。
ヘロデが事実、「狐」と呼ばれるべき人物だったからだ。単なる悪口ではなく、人を化かし、ずる賢く振る舞う彼の明らかな罪を見過さずに糾弾されてのこと。

A 32節b 「わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する・・・預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、命を狙われる中、毅然と 《 自らの贖罪主としての最期を語る主 》。
ヘロデはパリサイ人と結託して主を脅迫し、主が最後を意識して行われる働きを阻止しようとしたが、手を緩めずに為すべき務めを全うすることにしか関心はないことを伝えられた。主には脅迫など通用せず、怖じ気付くことなど有り得ないとの権威ある宣言である。

B エルサレムでの最期について触れるや、34節 「エルサレム・・・」と、彼らに思いを馳せ、歯向かう民に、今も尚、救いの手を伸ばし、感極まって涙される 《 魂を慈しむ主 》。
その都度受けざるを得なくされた迫害をものともせずに、唯、間もなく主を磔( はりつけ )にする民の行方を痛んで涙される主。

※ ひたすら罪人を思う思いの為にのみ命を差し出し、脇目も振らずにエルサレムに向かわれる主を覚えたい、と。


今朝は、主が、14章1節 「パリサイ派のある指導者の家」に客として招かれた時のこと、24節までがその場での様子であるが、ここで主の注目された点が何処にあったかに学びたい。主は、食事に招かれたものの、いつものように、決して好意的な歓迎をもってのことではない。1節c 「そのとき人々はじっとイエスを見つめていた」とある。この「見つめていた」とは、6章7節 「・・・イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」、20章20節 「機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」と、明らかに悪意をもって厳密に観察する目的でのこと。
2節で「イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた」とあるが、12、13節で主が、「ご自分を招いてくれた人にも」と話された時、「食事のふるまいをするときには、・・・からだの不自由な人たち・・・を招きなさい」と仰ったことから、主の目の前の「水腫をわずらっている人」は、招かれた客ではなく、故意に連れて来られた 《 主を律法の違反者として陥( おとしい )れる為の餌食 》 に過ぎないと考えられる。連れて来られた人を、招くためではなく、主を陥れようとして用いるとは、何と嫌悪すべき企( たくら )み、主とその病者への罪深い行為 !!
しかし、いつも主は、パリサイ人たちからの招きに伴う悪質な魂胆と敵意に満ちた空気と知りながらも応じておられる !!
それはあくまでも 《 敵意を抱く彼らを扱って罪を知らせる、惜しみなく愛して止まない 》 主の愛がそうさせるのだ。

主の愛は、彼らの何を扱っているのか ?

@ 主の ※ 3節 「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と、パリサイ派の指導者に尋ねておられることに見る。

もう既に主は、彼らの心を見抜かれてのこと。彼らは、自らの都合を考えて、どちらとも答えられない状況に追い込まれ、唯、4節 「黙って」という無難な態度を取ることによって、否応なしに、主にわざを行わせる羽目になっている。5節の主の質問によっても、身動きが取れなくされた。彼らは、律法を解きながら、律法の心 《 主を愛し、隣人を愛すること 》 とは裏腹な生き方、自分の利害の為ならば安息日に動くことはあってもである。隣人の窮状を見たとしても、「いかなる仕事もしてはならない。 出エジプト記 20章10節」を文字通り適用して助けず、助ける主を非難する 《 極めて利己的で身勝手な生き方 》 を扱われた。

A 7節 「客として招かれた人たちが上座( かみざ )を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された」に見る。

彼らに「招かれた人たち」というのは、招いた人への忠告で分かるが、12節 「友人、兄弟、親族、近所の金持ち」に限られていた。その人たちが、7節 「上座を選んでいる様子」に心を痛められ、人の優劣を意識して上座にこだわっている愚かさ、《 優越感に浸る高慢 》 を扱われた。
祝福の原則は、11節 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるから」と教えられた。

B 12節 「イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。『 昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち・・・を招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。 』 」に見る。

パリサイ人たちの善意に潜( ひそ )んでいる 《 動機における不純 》 にメスを入れられた。言うまでもなく、前者を招いてはいけないの意味ではなく、《 招く動機を問題 》 にして扱われた。
それは、パリサイ人の善意が、いつも12節d 「彼らがあなたを招いて、お返しをすること」が出来る人だからというので好意を抱いているに過ぎないと、主は洞察された。
マタイの福音書 6章1〜4節 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」とは、人の誉れのみを求めて善行する偽善者を警戒しての勧めである。
その為に主は、14、「お返しができない」、13節 「貧しい人たち」を招きなさいと。その時、14節 「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」と言われた。

※ 憎しみの眼差しを向ける人々からの不純な招きにも動じることなく、むしろそれと知りつつも、彼らへの愛の故に応じられる主の真実を覚えて、主に従う者でありたい。

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2018年06月07日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 66


ルカの福音書13章31節〜35節

先週は、23節 「主よ、救われる人は少ないのですか」の質問に、主が、24節a 「狭い門から入るように努めなさい【詳訳 : 自分に強制しなさい】」と答えられたおことばに学んだ。

@ 「狭い門」とは、24節b 「多くの人が、入ろうとしても入れなくなるから」の意味で言われ、25〜30節は厳粛 !!
神が意図された救いは、決して限られた人にではないが。

A 全ての人々の為の「神の国」が、何故、「狭い門」なのか ?
テトスへの手紙 2章11〜15節に注目した。救いによって与えられる「神の恵み」とは、罪人をして 《 如何に高価で、諦めざるを得ない、到達不可能な生き方をさせる 》 ものであるか、その霊的経験に導くことにあるが、全ての人がこの生き方を好むとは限らないからである。切望する者のみの経験となるから。
26節、主と食事を共にし、お話を聞いては感銘し、奇跡には驚嘆し、主に賛辞を寄せていたかも知れないが、主は、その人々に、27節 「不義を行う者たち」と言われた。8章13、14節 《 岩の地と茨の地 》 が彼らの態度だったから。

B 「努めなさい」とは ? 「救われる」為の努力ではなく、受けた救いを維持する際の警告としてのおことばである。
その為には、《 良い地となり 》 みことばに扱われては砕かれることである。主人に「不義を行う者たち」と言われた人々は、自らの不義を認めながらも悔い改めずに放置し、その為、遂に彼らは自らを正しいとして、主を十字架刑に処する人々となったのだ。

※ 28〜30節で警告されている人々は 《 自己満足に浸る傲慢・不遜な選民ユダヤ人 》 である。自戒しての信仰生活をと。


今朝は、31節 「ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。『 ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。 』 」と言われた場面に注目して、十字架の日に臨まれる主のお心に学びたい。私たちは既に、主のご生涯、最後の半年を残すのみとなったエルサレム行きの旅が、9章51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった」の記事から始まったと学んで来ている。
今日の記事では、エルサレム行きの旅もかなり南下して、ひと時、ヘロデ・アンティパスの領土内におられたことが分かる。このヘロデは、兄弟ピリポの妻ヘロディアとの不貞関係を非難したバプテスマのヨハネの首をはねた人物であり、主が彼の領土ガリラヤ地方内で行っておられる様々な奇跡に「ひどく当惑し・・・ 9章7節/イエスに会ってみたいと思っ・・・ 同 9節」ていた人物である。そのガリラヤ地方を出て南下された主が、今度は、彼のヨルダン川東部の領土内でわざを行っている事に警戒したからなのか ? パリサイ人たちを通して主を脅迫し、追い出しに掛かっている。
当時の 《 国主は皆、ローマの傀儡王( 操り人形 ) 》 であった為、主のわざによって主を支持するユダヤ人による何らかの暴動に警戒し、自らの立場を危うくしかねないと恐れた為か ? パリサイ人たちも又、自らの身を守りたいが為に、「ここから立ち去りなさい」と !!
しかし主の応えは、32、33 「行って、あの狐( きつね )にこう言いなさい。『 見なさい。わたしは・・・働きを完了する。しかし・・・ 』 」と。

主のお心に近付きたい。

@ 32、「行って、あの狐にこう言いなさい」と言い放つ 《 魂への責任感 》 をお持ちの主。

ヘロデが事実、「狐」と呼ばれるべき人物だったからだ。彼のやること為すことを見聞きされて、単なる悪口ではなく、人を化かし、ずる賢く振る舞う彼の明らかな罪を見過さずに糾弾されてのこと。親の七光に甘んじ、自ら主に殺意を抱きながらも、堂々と、「私たちの父はアブラハムです。 ヨハネの福音書 8章39節」と嘯( うそぶ )くパリサイ人たちには、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって 同 44節」と、真っ向から傲慢・不遜な高位高官たちの罪を暴かれるのに同様、《 救霊者としての主 》。

A 32節b 「わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは・・・進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、毅然と 《 自らの贖罪主としての最期を語る主 》。

ヘロデはパリサイ人と結託して主を脅迫し、主が最後を意識して行われる働きを阻止しようとしたのだ。「今日と明日、三日目」との表現は、文字通りの三日間の意ではなく、タイムリミットが近付いている今、手を緩めずに為すべき務めを全うすることにしか関心はないことを伝えられたに過ぎない。主には脅迫など通用せず、怖じ気付くことなど有り得ないとの権威ある宣言である。
しかも、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」と、ご自身の権威を明らかにされた。
ヨハネの福音書 10章18節 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。・・・この命令を、わたしの父から受けたのです。」との聖父への忠実さ。

B 34、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに・・・」と嘆きつつ救いの手を伸ばし、感極まって涙された 《 魂を惜しむ愛の主 》。

間もなく閉じようとしている主のご奉仕は、「めんどりがひなを」扱う扱いに擬( なぞら )えて、これまで「何度」、神の怒りから雛を守ろうと、罪からの悔い改めを迫り、さじを投げることなく、関わって来たことかと。
その都度受けざるを得なくされた迫害に対しては、へブル人への手紙 12章2、3節 「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方とある。ご自分の為に流される涙は微塵もなく、唯、間もなく “ 主を十字架につけろ ” と叫ぶ民の行方を痛んで涙される主。

※ ひたすら罪人を思う思いの為にのみ命を差し出し、脇目も振らずにエルサレムに向かわれる主を覚えたい。

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