2018年05月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 65


ルカの福音書13章22節〜30節

先週は、主が、18節 「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか」、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」と言われたところに注目し、18節 「そこで・・・」とあることから、14〜16節での会堂司の偽善を意識されてのことと学んだ。
両者は、何れも小さい物であること/しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「生長して木になり」、21節a’ 「全体がふくらみました」という目覚ましい結果を見ること/但し、本来良い筈の結果が、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」も、粉を膨張させた「パン種」も 《 良い意味ではなく、警戒すべきたとえを意味している 》 として「神の国」を考えた。

@ 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。
小さいとは、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴 《 受胎告知に与ったマリアに始まり、イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯 》、十二弟子の小ささ。

A しかしその小さな始まりも、成長に伴う腐敗に警戒を !!
迫害下の少数の群れも、教会の誕生を経て四世紀の国教化以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、膨れ上がる。
正に、「空の鳥、猛禽類」が宿って教会の純潔を失わせ、「パン種」による膨張に腐敗を来す現象を見ることに。
その腐敗要素は、主の癒しに憤った「会堂司」の 《 肉的性質・偽善 》 であり、律法の究極が「愛」であると知らず、冷ややかにも、群衆の主への近付きを阻止する出方に見る。

※ コリント人への手紙 第一 5章6〜8節、「種なしパンで祭りを」と !!


今朝は、主が、ある人の ※ 23節 「主よ、救われる人は少ないのですか。」の質問に答えられて、24、「狭い門から入るように努めなさい【詳訳 : 自分に強制しなさい】」と仰ったところに学びたい。
この質問者は、これまで懇々と 《 主の再臨とその備えの為に、悔い改めの必要性について 》 語って来られたことに危機感を覚えてのことか ? 多少なりとも、救いについて不安を感じた為、主に聞いて来たのではないかと考えられる。

@ 「狭い門」とは ?

24節b 「多くの人が、入ろうとしても入れなくなるから」に意味されている。25〜30節は、この事実を明らかにしている。 25節 「 『 ご主人様、開けてください 』 と言っても、主人は、『 おまえたちがどこの者か、私は知らない 』 と答えるでしょう」、27節 「おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け」と。実際、神が意図された救いは、決して限られた人にではない。ところが、人々が「ご主人様」と呼んでも拒絶されている通り、主を信じたからというので入れる訳ではない為、「狭い門」なのだ。

A 何故 ? すべての人々に設けられた「神の国」に入る門が、「狭い門」となるのか ?

テトスへの手紙 2章11〜15節 「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています」に注目したい。
ここに、救いによって与えられる「神の恵み」が、罪人をして 《 如何に高価で、到底願ってもない高潔な、諦めざるを得なかった、到達不可能な生き方をさせる 》 霊的経験に導くものであるかが分かる。
ところがどうでしょう !! すべての人が好むとは限らないのが 《 キリストによる救いなのだ 》。
この奇跡的な生涯は、切望する者が経験する。しかし、福音を確かに良いものだと認めはしても、それを自らの霊的経験とすることとには違いがあるのだ。単なる好奇心 ? 感動 ? 感心 ? 敬服 ? することが「救い」ではないのだ。
25節 「外に立って戸をたたき始め、『 ご主人様、開けてください 』 」と言っても主人に拒絶された人々が、憤慨して言った言葉に注意したい。26節 「私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました」と、しがみついて言っている。
そう、確かに、主とのお食事を共にし、お話を聞いたかも知れない。主と共に居ることは喜びであり、お話に感銘し共鳴し、しばしば見せて頂く奇跡には驚嘆して、主に賛辞を寄せていたかも知れない。所々で見る群衆たちの反応は、13節 「彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた」、17節b 「群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」であった。
ところが主は、そのように言って来る人々に、27節 「不義を行う者たち」と言われたのだ。8章13、14節に出て来る 《 岩の地と茨の地 》 に見たみことばに向き合う姿勢が、彼らの態度だったからである。

B 「努めなさい」とは ?

この「努めなさい」は、言うまでもなく、「救われる」為の努力ではなく、受けた救いをどのように保つのか ? 維持するのか ? 救いをどれ程重要視するのか ? 蔑( ないがし )ろにする危険性、可能性をご存知で、警戒、警告されてのおことばである。
その為、積極的には、あの種蒔きのお話の 《 良い地 》 にたとえられている姿勢でみことばに向き合うことであり、消極的には、問題になった 《 岩地、茨の地 》 にたとえられている姿勢を戒めることである。
即ち、一言で言うならば、みことばに扱われては砕かれることである。主人に「不義を行う者たち」と言われた人々は、社会的犯罪を犯す者を意味するより、神の前における不義であり、ローマ人への手紙 1章28〜32節に列挙されている 《 内なる罪深い肉の性質 》 である。しかし、これらの不義を認めながらも悔い改めずに放置するならば、遅かれ早かれ、殺意は殺人になる。言うまでもなく、彼らは自らを正しいとして、主を十字架刑に処する人々となるのだから。

※ 28〜30節で警告されている人々は 《 自己満足に浸る傲慢・不遜な選民ユダヤ人 》 である。自戒しての信仰生活を !!

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2018年05月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 64


ルカの福音書13章10節〜21節

先週は、1節 「ちょうどそのとき」と、悔い改めを強調された12章の事実を受けて、3節b、5節b 「悔い改め」なければ皆、その結果は滅びであると、最近起こった二つの事件から語られた悔い改めの必要性に注目し、その在り方を考えた。
2〜5節の 《 悲劇的な災難に遭遇するのは、より「罪深い」からだと決めて掛かった 》 人々を目の前に、誰でも迎える死に備えるべきこと、それが「悔い改め、方向転換」であると。
こう語られつつ、罪人のこの悔い改めの為にと働かれる 《 三位の神の知られざる会話 》 を、6〜9節のたとえ話に見た。
a. ここで聖霊は、聖父が人類との和解の為に、御子を遣わされ、御子の働きから、悔い改める人々が起こされることを期待しておられる聖父の御心を伝えている。
b. ところが現実は ? 全世界の祝福の基として立てられた民族でありながら、何一つその使命を弁( わきま )えず、むしろ、選民であるとして優越感に浸り、頑( かたく )ななままの現状であること。
c. 主は、間もなく三年の生涯を終えて十字架の日に向かう、最後のエルサレム行きを旅しておられるが、一向に悔い改めようとしない頑ななユダヤ人から激しい敵意を抱かれながらも、尚、救われる魂を求めておられる聖父のお心を知って、「もう一年」と執り成す番人であること。
ここに、アガペーの愛が !! 少数の悔い改める者が出たが、大多数のユダヤ人は遂に御子を十字架刑に処し、遂に、A.D.70年エルサレムの陥落、滅亡、離散の歴史を刻む。

※ 未だ悔い改めざる人々の為に執り成された主の如く、「どうか・・・木の周りを掘って・・・」の愛に生きる者でありたい、と。


今朝は、18節 「そこで、イエスはこう言われた。『 神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか 』 」と仰ったところから、19節 「それはからし種に似ています」、21節 「それはパン種に似ています」に注目したい。
この「そこで」とは、前節までの10〜17節で扱われた 《 パリサイ人とのやり取り 》 を受けられてのお話であることが明らかなので、一見、繋がりのないように見えるが、注意深く学びたい。
実は12章1節cで、「イエスはまず弟子たちに話し始められた。『 パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい 』 」と、既に語っておられた。ここ13章では、17節 「イエスがこう話されると、・・・みな恥じ入り・・・イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」群衆たちにも、その彼らを意識して語られたのだ。
その彼らとは、直接的には10節以下に登場して来た、14節の「会堂司」。彼は、主が ※ 10節 「安息日に、ある会堂で教えておられた」時に目にされた、11節 「十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人」をその病から解放されたのを見て、主のその行動に ※ 14節 「憤って、群衆に言った。『 働くべき日は六日ある。だから・・・ 』 」と群衆を責め立てた会堂司である。
会堂司は癒しを行われた主に憤ったが、直接主にではなく、主の恵みを見た群衆を叱りつけた。その動機を ※ 17節に見る。一目を置いている主には太刀打ちできず、自らの立場を利用して、主を喜ぶ群衆に向かうことしか出来なかった。

主は、信仰を持っていると自負している会堂司を意識されながら居合わせる人々に、「神の国は何に似ているでしょうか」と仰って、19節 「からし種に」、21節 「パン種に似ています」と、持つべき信仰を明らかにされた点を考えたい。両者は、三つのことで共通点を持っている。
a. 何れも小さい物であること。
b. しかし小さい物ではあるが、19節a’ 「それを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり」、21節a’ 「それを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました」という目覚ましい結果を持つこと。
c. こうした結果は、本来良いことのようであるが、実は、19節c 「枝に巣を作」った「空の鳥」においても、粉を膨張させた「パン種」においても 《 良い物としてではなく、警戒すべきたとえとして 》 用いられている。

この事実から「神の国」を考えたい。

@ 「神の国」は、極めて小さい物から始まったこと。

小さいとは、人目に付かない、人間的には見向きもされず、蔑( さげす )みの対象でしかない始まりを意味する。主のご降誕にまつわる事実こそ、その小さい象徴である。寒村ナザレの処女マリアへの受胎告知、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶から始まる ※ イザヤ書 53章の預言が語る「悲しみの人」としてのご生涯。十二弟子の訓練後、一粒の麦としてエルサレムの地に蒔かれた主の死と復活、その小さな群れに注がれた聖霊による働きの小さな教会の始まり。
その小さな教会も、地中海沿岸に幾つもの教会の誕生を見ることになるが、世界帝国ローマによる迫害は、教会存続の危機を招くことにもなり、教会は地下に潜った。

A ところがその小さな教会も、成長に伴う腐敗に警戒を !!

『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 136、137p “ 三世紀まで教会は、強大な軍事国家であるローマ帝国の中で、迫害される少数者として非暴力を貫いていた。教会の平和主義が大きく変化するのは、四世紀、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認、その「国教化」以降、教会は世俗の政治権力と結びつき、その結果、軍事力を肯定し「正義の戦争」の正当性を主張し始め・・・ ” 、腐敗が忍び込み、幾つかの宗教改革時代を経つつの今日である。
成長した教会に「空の鳥、猛禽類」が宿って、本来の教会としての純潔を失わせ、成長する教会に「パン種」による腐敗を入り込ませるという破壊的な傾向への警戒である。
その腐敗要素は、主が癒しを行われた時「会堂司」の中に見た 《 肉的性質・生まれ変わっていない生来の肉のままの性質 》 である。「会堂司」は高言する宗教家であり、礼拝の一切に責任を課せられていた人々である。しかしその実、主のわざ、「十八年も病の霊につかれ」ていた女性の癒しを喜べない命のない信仰、律法の究極が「愛」と知らず、冷ややかにも、主への憤りを露わに群衆の主への近付きを阻止し、神から委( ゆだ )ねられた神的権威を私有化する出方に見る。


※ コリント人への手紙 第一 5章6〜8節、「種なしパンで祭りを」 !!

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2018年05月11日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 63


ルカの福音書13章1節〜9節

先週は、私たちの告白する信仰生活上、「分裂」状態が起こる事は避けられないと語られたところに注目した。12章51節。

@ 「分裂」とは ?
52、53節 《 何らかの攻撃的反対、迫害、生きる権利の剥奪にまで及ぶ 》 というもの。このことは、主の受難 ※ 50節 「バプテスマ ⇒ 血に浸る( 十字架による死 )」に顕著。

A 「分裂」は何故、避けられないのかは、49a、51節に示唆。
実際主は「平和の君」として 《 神との和解、人との和解関係 》 をもたらす為に、いのちを捧げられた。ところが、人々がこの主を受け入れなかった為、「地上に火を投げ込む」という不本意ながらの結果を招くことに。主が与えようとしておられる「平和」を自らの経験とするには、《 主が容赦なく暴かれる扱いに、謙って悔い改めること 》 が要求されるからである。

B 「分裂」のない霊的状態については、むしろ警告のみ !!
日常生活の問題に十分な知識があったとしても、最も肝心な「今の時代を見分け」る知識 ⇒ 40節 「人の子は、思いがけない時に来る」その日に備える 《 霊的時代の知識 》 については、全くの無知であると警告をなさった。
警告の中心は ※ 58節 「その人と和解するように努めなさい」であり、21章34、36節 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」に通じる 《 神との関係における正しさ 》 に注意深くあるように、である。

※ 「分裂」を覚悟しつつ、主の歩まれた道に従いたい、と。


今朝は、13章3節b、5節b 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」、9節 「それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください」と、重ねて語られた 《 悔い改めなければ、その結果は滅びであるとの 》 警告に耳を傾けたい。
1節の「ちょうどそのとき」とは、主が、12章56節で「今の時代を見分け」ることをしない、即ち、主がいつ帰られても大丈夫なような準備もせず呑気に構えている 《 霊的に怠慢な人々 》 を相手に、58節 「・・・途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと・・・牢に投げ込みます」と、悔い改めを迫られた「そのとき」である。
従って、今朝の13章の初めの部分も又、1節 「ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した」を切っ掛けに、最近起こった二つの事件を取り上げて、この悔い改めの必要性、厳粛さを語られたことからである。

@ 2〜5節 「そんなことはありません。あなたがたも悔い改めないなら・・・同じように滅びます」と 《 人々への警告をもって 》 悔い改めを迫られた。

それは、ほとんどの人々が 《 余りにも自らの霊的状態について無頓着 》 だったからである。彼らは、悲劇的な災難に遭遇するのは、そうでない人々より「罪深い」からだと決めて掛かり、同情を抱かずに、極めて冷ややかだった。
人が、どのような形で死を迎えようが、その死に方で、その人の良し悪しを計るべきではないと警告された。
何故ならそうすることは、無責任極まりない越権行為であり、厳粛にもこのような【いつ、どの様な形で ? 突如として襲って来る】死を、一体誰が予知出来るというのか !!
こうした事実を前に、何か事あるその都度、謙虚に、自らの最期について考えるべきである。何故なら、あなたにも死は確実にやって来るからであり、このやって来るという現実ほど確かなことはないと。ローマ人への手紙 13章11〜14節。
その避けられない現実の前に為すべきことは、一にも二にも【悔い改め、方向転換】であること。

A 実に、この悔い改めの為に働かれる 《 三位の神の知られざる会話が交わされている 》 とは !!

6〜9節のたとえ話に注目したい。「ある人( 聖父 )が、ぶどう園( この世界 )にいちじくの木( ユダヤ人 )を植えておいた。そして、実を探しに来た( 悔い改めの実を結んで、神のご計画を遂行しているかどうか知ろうとされた )が、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人( 主 )に言った。『 見なさい。三年間( 主のこの日までの三年間のご生涯 )、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。 』 番人は答えた。『 ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。・・・それでもだめなら・・・ 』 」とある。
a. ここで聖霊は、聖父が 《 人類との和解の為に、御子を遣わされた 》 との事実を伝えている。御子の働きから、悔い改めるべき人々の興起を期待しておられる聖父を。
b. ところが現実は ? 全世界の祝福の基として立てられた民族でありながら、何一つその使命を弁( わきま )えず、むしろ、選民であるとの優越感に浸って、頑( かたく )なままの現状。
c. 主は間もなく、三年の生涯を終えて、最後のエルサレム行きを十字架の日に向けて旅しておられる。
しかし主は、聖父の言われるように、悔い改めを迫っても迫っても一向に悔い改めようとしない頑ななユダヤ人から激しい敵意を抱かれながらも、聖父のこのお心の嘆きを知りつつ、尚、「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます」と執り成す番人なのだ。
ここに、アガペーの愛を見る。最期の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。 23章34節」にこそ顕著である。主のこの執り成しは空しくはなかった。隣の盗人が救われ、百人隊長が救われ、このおことばでどれだけの人々が・・・ 🎶
しかし大多数のユダヤ人は、遂に御子を十字架刑に処し、その結果、A.D.70年、エルサレムはローマ軍によって陥落し、滅亡し、全世界に離散の民となった歴史がある。

※ 未だ悔い改めざる人々の為に、執り成された主の如く、「どうか・・・木の周りを掘って・・・」の愛に生きる者でありたい。

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