2018年04月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 61


ルカの福音書12章35節〜48節

先週、主が、13節 「遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と言って来た人を扱われた記事に学んだ。
14節のおことばは一見、問題を抱えているその人自身を拒絶しておられるように感じられるが、主は、私たちの日常生活に起こる問題に無関心な方ではないことを、22節以下の 《 烏 & 草花 》 を配慮される聖父の思いに見た。
主は、13節 「・・・兄弟に言ってください」と駈け込んで来た 《 彼の根本的問題の解決 》 に挑まれたのだ。主は、地上的( 束の間の、一時的な、表面的な )問題からの解放者ではなく、究極の解決を与える方だからだ。
主は15節で、彼の問題の中心である 《 貪欲 》 に触れられ、16〜21節のたとえ話をもって的確に指導された。

@ 貪欲とは、19節 「わが魂よ、これから先何年分も・・・」と、《 物質的豊かさで、魂を満足させる肉の性質 》 であること。

A 貪欲は ※ 20節 「愚か」であること。
それは、21節 「神に対して富まない者 ⇒ 神との関係において貧しい者」としての永遠の悲惨さを意味するからである。地上生活の最大の関心事が、何処にあるか ? の厳粛さは、その人の永遠を決定するという、ここにある。

B この警告に従うには、31節 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば・・・」と 《 第一の関心事を吟味し 》、「御国」を第一に求める生活【神との正しい関係の維持だけを考えよ】の如何を吟味し、「そうすれば・・・加えて与えられる」ものへの執着を捨てること ⇒ コロサイ人への手紙 3章1〜7節。

※ 32〜34節を励みにしつつ、信仰の歩みに心したい、と。


今朝は、主が日々の生活における必要を煩( わずら )わず、「御国」を求める生活をと勧められて後、その生活が ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」と 《 主の再臨を期待し、常に意識されたものであるようにと警告された 》 ことに注目。
主はこのことを、36節 「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい」というたとえ話から話された。
この話を聞いたペテロが突然、41節 「このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」と尋ねているが、主は即刻、42、43節 「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです」と、実に、あなたがたのことだと言われた。
37、44節の「あなたがた」とは、47節 「主人の思いを知」らせて頂いているキリスト者、48節c 「多く与えられた者・・・多く任された者・・・」たちである。ということは、もしお互いが 《 主の御思いを知る者とされ、十字架の贖( あがな )いによって救いの経験に導き入れられ、多くの恵みに与らせて頂いている 》 キリスト者とされ、主の弟子【主に学ぶ者、主に従う者】とされているのであれば、私たちのことなのだ。
41節の「皆」とは、主に押し寄せて来ている群衆のことであり、48、「主人の思いを知らずにい」る人々のこと。又、42節 「家の召使いたち」、45節 「男女の召使いたち」で、管理人からの世話を受ける立場にある人々のこと。

そこで 《 主の再臨を待ち望む者の心得として 》 語られた ※ 35節 「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」とある、具体的な生活態度に注目したい。この聖句は、マタイの福音書 25章の 《 十人の娘のたとえ話 》 に匹敵する箇所である。花婿なる主がいつ来られても慌てることなく、身支度を整え、器に油【聖霊】を満たして光を灯しているようにと。このような待ち望みの姿勢こそ、同 13節 「目を覚ましていなさい」に従った生活である。ルカでは、12章40節 「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」である。39節の、泥棒の来る時間がいつなのかが分からないのに同様。もしその時間を知っていたならば、損失を被ることは無くて済むのだから、気をつけて居なさい、とある。
即ち、37a、38節 「目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸い」とあり、その実際は、47節 「その思いどおりに」働くという生活に他ならない。
この世に来られた主が、へブル人への手紙 10章9節 「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と仰った姿勢である。即ち、同 5章7〜9節 「・・・従順を学び、完全な者とされ」に集約される 《 聖父への従順に生きること 》。主も又、ご自身への願いを選択する自由をお持ちだった。しかし悉( ことごと )く、聖父の思いが何であるかを絶えず聞きつつ、人の子の弱さを覚えるその都度、「自分を死から救い出すことができる方に向かって」祈られた。聖父の御心を知ることについて、夕拝( 1/31 )で、ローマ人への手紙 12章2節 「そうすれば」と学んだ。

@ 「主人の・・・思いどおりに働」くとは ?

a. 42節 「・・・食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人」として任務を全うすること。
コリント人への手紙 第一 4章1、2節 「神の奥義【福音】の管理者【委託】・・・管理者に要求されることは、忠実【宣教、の証の責任】だと認められること」とある。どのような意味においても、個人的な理由【恐れ、自分の無力さの自覚】によって妨げられてはならない 《 重要な責任問題 》 であること。
b. 45節 「男女の召使いたち」との掛かり合いにおいて誠実であること ⇒ ローマ人への手紙 12章9、10節。
ここには、主の愛とは相容れない恐るべき人への蔑( さげす )み、虐待がある。彼らを養うどころか、彼らを食い物にし、自らの肉を満足させている。明らかに隣人への態度の如何は、即、主への態度であるだけに見逃せない試金石と覚えたい。

A 「主人の思いどおりに働く者」に備えられている祝福が、37節c 「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます」であるとは !!

正に主は、ご自身の命をさえ与えて私たちに仕えて下さったお方。そのお方は、天においても再びとは、途方もない謙遜を。

B 但し、48節 「多く与えられた者」の不忠実には警告が !!

※ 主の再臨の予告を侮らずに 《 待ち望む者 》 に求められている、主の「思いどおりに働く」お互いでありたい。

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2018年04月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 60


ルカの福音書12章13節〜34節

先週は、主が、パリサイ人による「激しい敵意」を受けられる中、弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」と 《 厳格に与えられた忠告 》 に学んだ。
偽善とは、既に学んだ 《 外側は清めても、内側は強欲と邪悪で満ちている 》、うわべの敬虔さとは裏腹に汚れていること。
4節 「わたしの友であるあなたがたに」と 《 主は弟子たちとの友情の絆を明確に 》、リビングバイブル訳 「体を殺しても、たましいには指一本ふれることができない者たちを恐れてはいけません」と。

@ 5節 ⇒ 仮に、弟子たちの肉体を殺したとしても、それ以上のことは出来ない。彼らがあなたがたを 『 殺した後で、ゲヘナ( 黙示録 20章11〜15節 「火の池」「第二の死」のこと )に投げ込む権威を持っておられる方 』 が神だからと。

A 8、9節 ⇒ 実際、この忠告を聞いていたペテロは、捕縛された主を否むという恐ろしい裏切りを経験した。
ここで、10節 「・・・赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」には十分警戒したい。大罪を犯したペテロは、その直後、激しく泣き、悔い改めて赦された。
仮に弱さの故に、主を恥とすることがあるかも知れないが、罪人を悔い改めに導く聖霊を拒むことには赦しがない。

B 12節 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。
その為には、ヨハネ 16章4節 「話したことを・・・思い出すため」とあることから、日頃からの真面目な聖書的知識に与る生活には、心したい。

※ 弟子たちへの主の気遣いを、互いの心得としたい !! と。


今朝は、13節で「遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と言って来た人を扱われた記事に学ぶ。
主は、どのように対応されたのでしょうか ?
14節 「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」と言われる主は、問題を抱えているその人自身を拒絶しておられるように感じるかも知れない。
しかし主は、私たちの日常生活に起こる問題に無関心な方ではない。主はこの人の依頼を受けられて後、弟子たちに、22節から、「ですから」と、「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい」と語られて、《 烏 & 草花 》 に対する細やかな配慮をして下さる聖父に思いを向けておられる。
烏( からす )のことから、24節 「・・・それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう」、草花のことから、28節 「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ」と言われた。
即ち、日常生活における必要に無関心どころか、30節 「・・・これらのものがあなたがたに必要であることは、・・・父が知っておられます」、31節 「あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」、32節 「小さな群れよ、恐れることはありません」、むしろ、33節 「自分の財産を売って施しをしなさい」と、煩( わずら )いがちな重い頭をぐっと持ち上げて、主の生き方に招いておられる。

主は、13節 「・・・兄弟に言ってください。」と駈け込んで来たその人を 《 究極の救いに導こうとされた 》 のだ。
遺産相続の問題で起こるもめ事は決して穏やかなものではない !! 他人との関係で起こるものではなく、肉親間でのことだけに醜い感情問題を孕( はら )み、事態は破滅的でさえある。
しかし主は、その事態の収拾を図る為に奮闘【独り占めにさせないように、協力】されたのではなく、それを不足とする 《 彼の根本的、本質的問題の解決 》 に挑まれた。
彼の不満は、親の遺産を当てにしていることに始まる。又、自分を含めて兄弟の誰一人として、遺産に与れないのであれば未だしも、正当な自分の取り分・割り当て分があるにも拘らず、それを誰の許可もなく独り占めにして、良い思いをしているその兄弟が許し難く腹立たしい。そのような状況には、訴訟を起こして裁判沙汰に持ち込み、解決に長時間を要する。
主は全てを見越されて、彼を真の解決に導かれたのだ。
主は、地上的( 束の間の、一時的な、表面的な )問題からの解放者ではなく、究極の解決を与える方であられることに感謝したい。
主はメスを入れられた。何処に ?
彼を悩ませた 《 遺産の取り分がもらえないという事態 》 にではない。又 《 こうした事態を引き起こした兄弟を直接、主の御許に来させる 》 ということにでもない。
「私の兄弟に言ってください」と言って来た本人、即ち、こうした現実に縛られ、この現実を何とか解決してもらおうと必死になる 《 彼自身の心 》 にである。
15節 「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と( 彼にだけではなく、周りの人々にも同じことが言える )、彼の問題の中心である 《 貪欲 》 に触れられ、16〜21節のたとえ話をもって的確に指導された。主は 《 貪欲に警戒を !! 》 と言われた。

@ 貪欲とは ?

16節に出て来る農夫の生活態度で説明されるが、19節 「わがたましいよ、これから先何年分も・・・」と、《 物質的豊かさをもって、魂を満足させる肉の性質 》 である。

A 貪欲の ※ 20節 「愚か」さ。

「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」からであり、魂の永遠を保証するものではない。
ということは、21節 「神に対して富まない者 ⇒ 神との関係において貧しい者」としての永遠の悲惨さを意味するからである。地上生活の最大の関心事が、何処にあるか ? の厳粛さは、その人の永遠を決定するという、ここにある。

B この警告に従うには ?

31節 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば・・・」と 《 第一の関心事を吟味し 》、「御国」を第一に求める生活【神との正しい関係の維持だけを考えよ】の如何を吟味し、「そうすれば・・・加えて与えられる」ものへの執着を捨てること ⇒ コロサイ人への手紙 3章1〜7節。

※ 32〜34節を励みにしつつ、信仰の歩みに心したい。

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2018年04月15日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 59


ルカの福音書12章1節〜12節

先週は、11章38節 「食事の前に、まずきよめ( 儀式的清め )の洗いをなさらな」い主を見て驚いた人々が、主から「わざわいだ」と叱責されたところに学んだ。

@ 主が、直ちに扱われた 《 彼らの「わざわい」とは 》 ?
根本的な問題は、39節 「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」との指摘にある。即ち、彼らの最大の関心事がいつでも外側のきよさにしかなく、内側のきよさにはないという指摘。
a. 42節 ⇒ 形式主義。
b. 43節 ⇒ 自己誇示、高慢。
c. 44節 ⇒ 人々を知らないうちに汚している。
d. 46節 ⇒ 冷酷さ。
e. 47、48節 ⇒ れっきとした殺人者。 
f. 52節 ⇒ 無責任。

A 扱われた彼らは、どうしたのか ?
53、54節 「律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである」と。
45節 「・・・私たちまで侮辱することになります」と言う彼らは、自ら真理を伝える者でありながら、真理の前に謙って自らを吟味しようとはしない。自己満足的で独善的な態度を貫き、主の叱責を受け入れなかったことは致命的である。

※ 私たちは、主の語られるおことばから光を当てられ、自らの内面を探られては謙り、赦しと清めに与り続けたい、と。


今朝は、主が、11章53、54節に見るパリサイ人からの「激しい敵意」による攻撃を受けられ、12章1節 「数えきれないほどの群衆」たちに取り囲まれる中、弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」と 《 厳重に警告された上での忠告 》 に学びたい。
この警告は、ご自身への殺意が本格化しつつある動きを洞察されてのこと。主の重荷が、やがて主に従う者であるが為に 《 パリサイ人から同様の敵意、迫害を受けるであろう弟子たち 》 にあったからである。
弟子たちが警戒しなければならなかったパリサイ人の問題は、「偽善」だった。偽善とは、仮面をかぶっていること、即ち、11章39節で既に学んだ 《 外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちている 》 とあったように、うわべの敬虔さとは裏腹な汚れの状態でいること。
主が ※ 2節で「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」と言われたのは、偽善の仮面は〈 遅かれ早かれ 〉はがされて、彼らの正体が暴かれる時が来るとの警告である。
と同時に、この警戒すべき事実を踏まえて、主は ※3節 「ですから」と、弟子たちにも極めて重大な責任について語られた。この( 2節の )事実は、弟子たちにおいても心得なければならないことがあるとの忠告である。3節 現代訳 「わたしが内輪の弟子たちにだけ伝授した奥義を、今こそ公然と言い広め、伝道しなさい」とある。もし 《 公然と伝えることをしなければ、その責任は必ず問われることになる 》 と。
ここでなさった、主の弟子たちへの忠告に注目したい。
主は、弟子たちに、4節 「わたしの友であるあなたがたに」と 《 主との友情の絆を明確にされて 》、「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません」と 《 恐れるべきお方を恐れるように 》 と激励された。
この聖句のリビングバイブル訳は、「体を殺しても、たましいには指一本ふれることができない者たちを恐れてはいけません」とある。

自らの激励のことばとする為に、知っておきたい。

@ 5節 「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」。

仮に、弟子たちの肉体を殺害したとしても、それ以上のことは出来ない。へブル人への手紙 9章27節に、厳粛な事実が伝えられている。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。殺人者があなたがたを 『 殺した後で、ゲヘナ( ヨハネの黙示録 20章11〜15節 「火の池」「第二の死」のこと )に投げ込む権威を持っておられる方 』 が神であり、人の肉体の死後を扱う最高権威者だからであると。
迫害の故に殺害された者を敗北者と見做したとしても、神は、自らを勝者とするパリサイ人を、自らの罪の為に、悔い改めない罪と共に、最終的に裁かれるお方。
7節では、「あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです」とある。6節 「・・・そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません」とあるからである。

A 8、9節 「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」。

実際、この忠告を聞いていたペテロは、捕縛された主を否むという恐ろしい裏切りを経験した。正に、この忠告によると、彼は当然「知らない」と言われる筈の者。しかし、彼は、この大罪を犯した直後、激しく泣き、悔い改めたことを覚えたい。この意味で、10節 「・・・赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」を考えることは重要。
仮に弱さの故に、主を恥とすることがあるかも知れない。しかし、一度そうだからというので、拒絶される訳ではない。真実な悔い改めに対しては、限りなく赦しがある。しかし、聖霊を冒涜する罪については、その余地はない。パリサイ人の罪、即ち、11章20節 「神の指( 御霊 )によって」いる主の働きを、悪霊によっているとした冒涜のこと。
罪人を悔い改めに導く唯一のお方を拒むからである。

B 12節 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。

その為には、ヨハネの福音書 16章4節 「( わたしが )話したことを・・・思い出すため」とあることから、日頃からの真面目な聖書的知識に与る生活には、心したい。

※ 弟子たちへの主の気遣いを、互いの心得としたい !!

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