2018年03月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 57


ルカの福音書11章33節〜36節

昨年最後の礼拝となった先聖日は、12月のクリスマス講壇を終えて 『 ルカ 』 の連講に戻り、11章29節 「この時代は悪い時代です」と嘆かれた主のおことばに学んだ。
それは彼らが、数多くの ※ しるしを目撃しては未だかつて見たこともないことだと主に驚嘆する人々だったにも拘らず、更に ※ 16節 「天からのしるしを要求し」て来る故に。
主は淡々と、 “ あなた方に必要なのは新たに奇跡を見ることではない !! 信じるのに十分なしるしは見ている。「ただし、ヨナのしるしは別です」 ” と、贖いの完成である復活だけは、これからあなた方は見ることになるがと、窘( たしな )められた。
その時語られた 《 頑なな態度への警告 》 に注目した。

@ 31a、32節 「南の女王、ニネべの人々が・・・罪ありとします」。

A 何故、彼らが「この時代の人々を罪ありと」するのか ?
31節b’ 「彼女はソロモンの知恵を聞くために・・・来た」、32節c 「二ネべの人々はヨナの説教で悔い改めたから」と。
南の女王は、歴代誌 第二 9章1〜9節 ※ 5、6節で、ソロモンの栄華に彼の偉大さを認めて謙ったが、ルカ 11章31節d 「ここにソロモンにまさるもの」である主ご自身を目の当たりにしながらも、主を礼拝しない不信仰の故に。
ヨナ書 3章3〜5節で、ヨナの「たった一日分の道のりを歩き回って叫んだ」説教にさえ謙ったニネべの人々に比べて、ルカ 11章32節d 「ここにヨナにまさるもの」である主ご自身に対する態度が余りにも不信仰の故に。

※ 信じることにおいて、過去の経験に安住せずに、現在的営みと覚え、日々神のご意志に自らの意志を従わせたい、と。


今朝は、 《 主が灯された明かりのたとえ 》 から警告された、みことばを聞く者の心得に学び、自らの姿勢を正したい。
33節 「だれも、明かりをともして・・・」とあるのは、聖父が、御子を通して未だかつて見たことのない永遠の、消えることのない光をこの世にもたらす為に、御子をこの世に遣わされたことを意味する。
もたらされた光とは、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 ヨハネの福音書 1章9節」、「わたしは世の光です。 同 8章12節」と言われた主ご自身であり、又、光である主のご生涯によって世に明らかにされたしるしの数々である。11章20節 「わたしが神の指( マタイの福音書 12章28節 ⇒ 御霊 )によって悪霊どもを追い出している」事実、先週学んだように、南の女王が驚嘆して見たソロモンの知恵に勝る知恵者( 31節d )を見、ニネべの人々が聞いた説教に勝る説教( 32節d )を聞かされた一つ一つである。
その「明かりを」、33、「穴蔵の中や升( ます )の下に置く者はいません。燭台の上に置きます」とあるように、主は、ご自身の使命を遂行されたのだ。主は「話さなかったら、行わなかったら」迫害されることもなかったのに語り、行えば、15節 「悪霊どものかしらベブゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と罵倒されることをご存知で、隠すことなく、燭台の上に置いて、真理を明らかにされた。
それは、33節b’ 「入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです」との目的の為で、そうすることによって起こるであろう迫害、遂には死を覚悟されてのこと。

主によって「光が見えるように」された今、光、即ち、主のことばとわざによって 《 神を知るようにされた ⇒ ヨハネの福音書 1章18節b 詳訳 「啓示された/目に見えないお方を見えるように現わされた/知らされた」 》 今、見たあなた方がどのような態度を取るかによって、光を見たことによる恩沢を受けるのか、そうでないのかが決まると、主は言われる。

@ 光を見たことによる恩沢とは ?

34節 《 全身も明るくなり 》、36節 《 全身が光に満ちたものとなる 》 とあるが、何と示唆に富んだ恵みが約束されていることか !!
主は、ヨハネの福音書 10章10節bで、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と言われた。或いは、同 4章14節で、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出でます」、同 7章38節 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と。
お互いも、主の贖( あがな )いによって与えられた 《 自らの霊的経験 》 を見る時、主の語られたことが真実だったと知っている。実際的な経験としての 《 罪の赦し、罪の性質の清め 》 がなされ、その心に聖霊の注ぎが与えられ、内なる恵みが外に外にと、溢( あふ )れ流れ出て行くようになると !! 主が ※ マタイの福音書 5章14節 「あなたがは世の光です」と言われたようになる。

A 問題となる、11章34節 「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」と、《 見た「光」を受け入れるのか ? 受け入れないのか ? 》 について。

a. 「詳訳 : あなたの目【良心】が健全なら」と、主の語られるところに誠実に応える心の態度である。
主のことばは、私たちの頭脳にではなく、心に働き掛け、良心は悔い改めを迫られる。「良心が健全なら」とは、意図の純潔さ、たった一つの目的を意味し、そこには、ひたすらに、神の真理の前に自らの罪の事実を認め、救いを求めて謙る姿勢が。
但し、主の言われる ※ 35節 「自分のうちの光が闇にならないように」とある 《 光に留まり続ける注意深さ 》、36節 「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら」とある 《 明け渡しの継続に注意深い生活 》 には十分留意を。
b. 「詳訳 : あなたの目【良心】が不健全なら」と、主の語られるところに不誠実な心の態度である。
主の目の前にいる群衆たちがそうであったように、貪欲にも更にしるしを求める姿勢である。心照らされて明るみにされる自らの罪の事実に背を向け、自らをあくまでも正しいとして非を認めず、かえって語る主を「悪霊につかれている」と訴え、それ以上言わせまいとする頑( かたく )なな態度のこと。
a. b. ⇒ 詩篇32篇5、10、11節

※ 与えられた光には即刻従い、光を放つ存在でありたい。

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元旦礼拝


使徒の働き4章23節〜31節

年頭に当たり、ペンテコステ( 五旬節 )の出来事によって誕生したばかりの教会に、早くも迫害の波がにわかに押し寄せて来た場面に注目してメッセージとしたい。
迫害は、現代の共産圏に限った問題ではない。
仮に国家的規模における迫害はないとしても、主が最後の晩餐の席で語られたと思われる 《 ヨハネの福音書 15章18〜25節 》 に耳を傾ける限り、迫害は、どのような国に国籍を持っているかに関係なく、主に従う立場を明確にするところに起こるものだと伝えられているからである。 
ここで言われる「世」とは、神に敵対し、「この世の神」と呼ばれるサタンに支配されている世界のことで、もし、私たちがキリスト者としての立場を明確にするならば、必ずや何らかの無理解、摩擦、抵抗、反抗、抗議、最悪な場合は、死に至らせられるということ。
この世界は、神に属するのか、サタンに属するのかの何れかの帰属しかないと、主は明確にしておられる。
今朝の記事は、正に、使徒ペテロとヨハネとが自らの帰属を明確にしたことに始まった迫害である ⇒ 18〜20節。
私たちにおいても、自らが 《 この世のものではなく、この世から選び出された者で、主に属する者 》 との立場を明確にする時、大なり小なり、遅かれ早かれ迫害に準じた抵抗が生じて来ることは、避けられない現実。
今朝の記事を学ぶに際して、自らの態度を調べた上で 《 主に属する者であるということを大前提として 》 避けられない現実を前に教会は、どういう所だったのか ? を考えたい。

@ 23節 「釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」とあるが 《 報告し合う仲間の群れだった 》 こと。

32〜35節 「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。・・・彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とある。経済的事情を知るということは極めてデリケートな問題であるにも拘らず、互いの状況を知って補い合うことが出来ているということは、驚くべき一致である。互いの信頼関係が築き上げられている、真の神の家族として存在している証である。
極めて現実的で、実際的な交わりがなされている限り、現在直面している問題を共有しているということであり、孤立せずに知り合っているということである。
初代教会と違って、一緒に集まる点では制約があるにしても、月二回許されているコイノニヤでの交わりは、非常に貴重な時間、場である。誰一人、孤立した状態では健全な信仰生活を送ることは出来ないとの認識を新たにしたい。

A 24節 「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」と 《 祈る群れだった 》 こと。

その祈りは、極めて冷静で慌ただしくない。その特色は ?
a. 物事を神の視点から見た祈り。
即ち起こり来る全ての出来事を、神の摂理の中で行われているという読み方が出来ているということにある。
28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました」と言い切る信仰である。
それはやはり、聖書に通じていることによる。
25〜27節 「あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『 なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか・・・ 』 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは・・・」と、聖書を理解し、適用において正確である。
私たちにおいても、今日起こる事、明日何が起こることになっても、しっかり 《 神の視点で物事を考える習慣 》 を、聖書に親しむことによって会得する者でありたい。
私たちが狼狽( うろた )えるのは、問題の全てを直ちに目に見えることで判断し、決して 《 聖書では ? 神はどの様に ? 》 と、信仰の目を向けようとしないことにある。
b. 29節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」との被害者意識ではなく、積極的に神の干渉を祈る祈り。
それは、教会が完全に 《 神のものとの意識が明確 》 だったことにある。9章4節 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」に顕著。教会を迫害する時、主はご自身への痛みとして感じ、直接、迫害者に向かって干渉されるお方だからである。
c. 31節 「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」という結果を見た祈り。
彼らは、迫害によって決して敗北してはいない。
コリント人への手紙 第二 4章7〜18節 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」。
同じく、コリント人への手紙 第二 6章1〜10節 ※ 9、10節 「人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」という、逆説的な生き方をもって勝ち誇るのが主のご生涯の特色であり、キリストに従う教会の特色ともなる。

※ この元旦礼拝から始まる2018年も、全てがご自身の御手に握られている主に属する【19、20節 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」との明確な意志表示する】であるとの意識を新たにして踏み出したい。

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2018年03月26日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 56


ルカの福音書11章29節〜32節

12月の講壇は四回に亘ってクリスマスを記念し、11章28節 「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たち」をテーマに、主の母マリアと夫ヨセフの神への従順、そして、主の聖父への完全な従順について注目した。
主の従順は、へブル人への手紙 5章8節 「御子であられるのに」、7節 「肉体をもって生きている間」という人の子としての生涯を選択してくださったことに始まったと。
「御子であられるのに」とは、同 1章3節 「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」という神ご自身であられるのに、人の子としてのお扱いの中、身代わりの小羊となるべく、完全な謙りをもっての聖父への従順を全うしてくださったということであるその 《 完全な謙りをもって 》 とは ?

@ 人の子としての無力を徹底的に自覚されて「聞き入れられました」との祈りを捧げられたこと。

A 聖父を「・・・できる方」と信頼し、聖父に「向かって」真剣な祈りと正直な祈りの生活を送られたこと。

B その生活を聖霊は「敬虔」と認め、「その敬虔のゆえに聞き入れられました」と、即ち、聖父の御心には従いたいとする 《 堅固な意志 》 を持っておられたこと。

※ 主は日々、「様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」て無傷の小羊としてご自身を捧げ、「永遠の救いの源」となられた主の犠牲を覚えて、聖餐式に与った。


今朝から連講ルカに戻り、11章29節 「この時代は悪い時代です」と嘆かれた主のおことばに学びたい。
どの様な意味で「悪い時代」だと嘆かれたのか ?
このおことばに次いで、「しるしを求めますが」とあるが、既に、16節で群衆たちはイエスを試みようとして、「天からのしるしを要求し」ていた。彼らはこれまで、数多くの ※ しるし( 証拠としての奇跡 )を目撃しては、未だかつて見たこともないと言って驚嘆して来た人々なのだ !!
にも拘らず、「天からのしるし」即ち、天を見上げて、力ある超自然的なわざを見せてくれさえすれば、いとも簡単にあなたを救い主として信じるのにと嘯( うそぶ )くのだ。
主は洞察しておられる。彼らは " 主のわざを見せてくれたら、見せてくれさえすれば " と言うが、自分たちの頑( かたく )なさ、主を救い主だとは認めたがらない生来のプライドに触れさせまいとしているだけのことだと !!
主は淡々と言われる。あなた方に必要なのは新たに奇跡を見ることではない !! 信じるのに十分なしるしは見ている。「ただし、ヨナのしるしは別です」と。
それは、マタイの福音書 12章40節 「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」と言われた 《 これから実現する十字架の死後の復活 》 のことである。ルカの福音書 11章30節 「人の子がこの時代のために、しるしとなるから」と、贖( あがな )いの完成である復活だけは、これからあなた方は見ることになる。復活こそは奇跡中の奇跡であり、誰にも有無を言わせない、決定的な奇跡を、と。

主が、その見ても信じようとしない群衆を諭( さと )す為に仰った記事から 《 頑なな態度の恐ろしさ 》 を学んで、メッセージとしたい。
その厳粛さは、11章31節 「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします」、32節 「二ネべの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします」と、ここにある。

@ 「罪ありとします」とは ?

罪に定められるの意。彼らが【殺人者、不義を働くという具体的な】犯罪者だからという訳ではない。
「罪に定められる」とは、主を拒むことへの裁きである。
彼らは主が正しいお方だと認めていた。
マタイの福音書 22章16節 「先生。私たちは、あなたが真実な方で・・・」、ヨハネの福音書 10章33節 「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ」と。にも拘らず、受け入れない、これが罪。神のご意志を故意に拒絶することで、ヨハネの福音書 3章19〜21節にその理由が明確。唯、神を認めたがらないだけのこと。その為、自ら裁きを招いている。同 16章9節 「罪についてというのは、彼らがわたしを信じない【信頼しない、より頼まない、結びつかない】からです」とある。

A 何故、31節 「南の女王」が、32節 「二ネべの人々」が、「この時代の人々を罪ありと」するのか ?

31節b’ 「彼女はソロモンの知恵を聞くために・・・来た」、32節c 「二ネべの人々はヨナの説教で悔い改めたから」と。
南の女王は、歴代誌 第二 9章1〜9節 ※ 5、6節 「彼女は王に言った。『 私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。私は自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、なんと、私にはあなたの知恵のすばらしさを半分も知らされていなかったのです。あなたは、私が聞いていたうわさを上回る方でした・・・ 』 」と感嘆し、賛辞を惜しまなかった。
シェバの女王は、ソロモンの栄華を目の当たりにした時、それを紛れもない彼の偉大さと認めて謙ったが、ルカの福音書 11章31節d 「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります」と言われる主ご自身を目の当たりにしながらも決して、主に相応しい礼拝もなく不信仰の故に。
二ネべの人々は、ヨナ書 3章3〜5節 「・・・まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。・・・すると、二ネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった」とあり、真剣に悔い改めたのだ。
ヨナの「たった一日分の道のりを歩き回って叫んだ」説教にさえ謙った二ネべの人々に比べて、ルカの福音書 11章32節d 「しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」と言われる主ご自身に対する態度が余りにも不信仰の故に。

※ 「信じる」とは、過去の経験に安住すべきではなく、現在的営みと覚え、日々神のご意志に自らの意志を従わせたい。

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