2018年02月24日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 55


ルカの福音書11章27、28節

先週は、「口をきけなくする悪霊」を追い出された主が、非難を浴びられた時、二つのたとえ【17b〜19、21〜22節】をもって、ご自身の働きが悪霊によるものではなく、20節 「神の指によって( マタ 12・28 ※ 神の御霊 )」なされたと宣言して後、悪霊を追い出された人への忠告( 24〜26節 )から、《 救いに与っている者の留意すべき問題 》 として学んだ。
何故なら、主を受け入れ、主のものとされた私たちも又、「汚れた霊」から解放された者だからだ。「汚れた霊」の特色を24〜26節に見て、警戒すべき点を再確認した。
私たちは、「汚れた霊」を追い出して頂き、《 罪の赦し & 罪性の清め & 聖霊の内住による新しい歩み 》 に導かれた。
ここで、主の25、26節、の警告が重要になって来る。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って」とある状態に警告が必要なのだ。
主の十字架における救いが、全人格的領域における救いであるにも拘らず、唯、その初次的経験としての 《 罪の赦し ⇒ 犯した過去の罪の赦しにのみ留まり 》、その後、それからの歩みに不注意でいるならば、「家は掃除されてきちんと片付いてい」る空っぽ・真空状態で危険 !! 換言すると、恵みによって満たされていなければ危険な状態なのだと。
何故なら、26節 「自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」と。

※ 「自分の家」とは、住んでいた罪人に愛着を持っているの意 !! 主に明け渡された瞬時の歩みに注意深くありたい、と。


今朝は、主が、27節 「群衆の中から、ある女が声をあげて【感極まって、声高らかに、声を張り上げて】」、「あなたを宿した胎、あなたがた吸った乳房は幸いです。」と言って来た時に、28節 「しかし【その通りです。でも】」と、その事実を否定こそ為さらなかったが、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と仰った所に注目して、メッセージをお取り次ぎしたい。
実際マリアは御使いから、1章28節 「おめでとう、恵まれた方。( 脚注参照 ※ あなたは女の中で最も祝福された方。 )」と言われた女性。ですから主も又、この事実を否定されずに認めておられることだけは確かなのだ。
この場面での主の対応に、女性への礼儀正しさを見る。母マリアへの節度ある敬意、と同時に、その選びに与らなかった他の全ての女性への節度ある敬意、特に感極まって叫んで来る女性の思いを重く受け止め、思いやる愛を見るのでは !!
主は、多くの女性たちが弟子として 《 お仕えしたいと願って 》 従っていることを知っておられた。
現に、8章2、3節には、「財産をもって」仕えていた「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」を初めとする女性たちの群れが存在していた。
実際、旧約時代において 《 救い主の母となること 》 は待望され続けて来たことであり、サムエルの母ハンナがその典型である。サムエルを神殿に捧げた時に歌った賛歌( サムエル記 第一 2章1〜10節 )は、実に、母マリアの賛歌のモデルである。
但し、女性であれば誰しもが願いたい立場ではあったとしても、羨望の的であったとしても、誰しもが得られる立場ではなかったということだけは弁( わきま )える必要がある。
何故ならば、光栄ある祝福に満ちた選びである 《 救い主の母 》 には、質の高い信仰が必要とされていたからである。
主は、母マリアを祝福して叫んで来た女性を慈しみながら、又、そのように評価してやって来たことには同調しつつも、冷静に、母マリアに抱くべき理解を正しつつ、真の祝福が何処にあるのかを明確にされた。

@ 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。

同じ聖書を用いるキリスト教会において、しばしば問題とされていることの中に、マリア崇拝があるが、主のこのおことばを見る限り、慎むべきであると思われる。
人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選び故に、その選びに相応しい女性である故に、マリアを崇拝したくなる気持ちは否めないとしても、やはり礼拝は神ご自身への営みだからである。
ヨハネの黙示録 22章8、9節には「・・・これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。『 いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。 』 」と言及されている。
人の弱さとして、ある人物を偉大な人と見做した時、その人を過度な尊敬で礼拝する傾向性があると自戒したい。

A 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。

主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。マタイの福音書 15章1〜6節は、父母への当然の義務についての言及である。その前提で、同 10章34〜39節では、※ 37節 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われた。家庭が様々な形態で崩壊している今日、主の言われるところに聞くことは、全ての人々への激励である。

B 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たち」にあると。

ある翻訳には、27節の「あなたを産み、あなたを育てたお母さんは、何と幸いなことでしょう」を受けて、「確かにその通り。ですから、マリアが神の言葉を聞いてそれを信じた様に、誰でも神の言葉を聞いて、それを信じる人は幸い」とあり、マリアの幸いさは、主との肉の家族関係にではなく、神の言葉に従った霊的関係にあったと伝えている。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、ルカ 1章34節の、「どうしてそのようなことが・・・」は、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!

※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい。

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2018年02月17日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 54


ルカの福音書11章14節〜26節

先週は、祈り手の心得について、5〜7節のたとえ話の結論である、8節 「・・・友だちのしつこさ【根気強さ】のゆえなら起き上がり、必要なものを・・・」から学んだ。

@ この 《 根気強さ 》 とは ?
9、10節 「求め【続け】・・・探し【続け】・・・たたき【続け】・・・」と、力の度合いが加えられて行く様子を、アブラハムがソドム・ゴモラ滅亡の予告を聞かされた時( 創 18・20、21 )に捧げた、主の聖前での、「 ※ 24 もしかすると・・・ ※ 28 ※ 29 ※ 30 ※ 31 ※ 32 」の祈りに重ねた。

A 主は、9、10節 「そうすれば与えられ・・・。そうすれば見出し・・・。そうすれば開かれ・・・」と確約されたが、《 根気強く祈る祈り手の動機の純潔への約束 》 であるとの弁( わきま )えを。
5、6節 「友人が・・・来たのだが、出してやるものがない」との友人の必要の為、私を憐れんで下さいとの動機が肝要。

B 主が与えると仰る、8節 「必要なものを何でも」とは ?
13節 「ご自分に求める者たちに聖霊を」とあり、ギリシア語では、この聖霊に冠詞が付いていないので、聖霊ご自身をではなく 《 聖霊の賜物や働きのこと 》 とある学者は言っている。
そうであるならば、内住の主が、私たちの求めに応えて、明確に働いて下さるとの諸々の業を、との約束。その意味で、マタイでは「good things」と複数形であることが頷( うなず )ける。アブラハムの祈りは応えられた。創世記 19章29節。私たちも、友の必要に応えられない無力な者、アブラハムの言うように「ちりや灰」に過ぎない者との自覚に立つ者であればある程、根気強く 《 聖霊の干渉を 》 求める者となる筈。

※ 自らの無力さを認めて、隣人の必要の為に祈りたいと。


今朝は、「口をきけなくする悪霊」を追い出された主が、群衆の中のある者たちから非難を浴びる記事に注目する。
群衆たちが驚嘆する中、ここでも反対者たちからの非難に直面された。他の福音書によると、彼らが「パリサイ人たち」だったとされているが、15節 「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」、16節 「イエスを試みようとして、天からのしるしを要求した」とある。
今朝は、前者の 《 悪霊どもとの関係 》 が取り扱われている部分に学び、後者の 《 求められたしるし 》 に関しては、29〜32節で学ぶことになりますが、ここでも主は、彼らの ※ 16節 「イエスを試みようとして」と、主を試し、誘惑して貶( おとし )めようとする不純な動機が明らかであるのを知った上で、17節 「彼らの心を見抜いて言われた」と、懇( ねんご )ろに扱われる。鬱陶しがらずに、なお彼らの魂に愛を注がれる。
その答弁は、明確だった。誰一人として反撃できるようなものではなかった。
主は二つのたとえをもって、ご自身の働きが悪霊によるものではないこと、20節 「神の指によって」、マタイの福音書 12章28節では「神の御霊( みたま )」でしておられると宣言された。
【@】 17b〜19節 「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます」と。
【A】 21、22節では、「強い者 ⇒ サタン」を打ち負かす「もっと強い人 ⇒ 主」が襲って、「武具を奪い、分捕り品 ⇒ サタンの虜になっていた人々」を奪い取る( 解放する )、と。

主は非難する者を厳格に扱われて後、主は牧会者 !! ここで、悪霊を追い出してもらった人への忠告を怠らなかった。
その忠告が、24〜26節であり、救いに与っている者の留意すべき問題であるとして学びたい。
主は、口がきけるようになった人から出た「汚れた霊」の動きについて語っておられますが、私たちは、その「汚れた霊」の特色をしっかり把握した上で、その「汚れた霊」から解放された人、即ち、主を受け入れ、主の者とされた私たちが、その後、信仰生活を送る際に注意すべきことが語られている部分として、学んでおきたい。
先ず、「汚れた霊」の特色について見ておきたい。
24節 「人から出て行くと、水のない地( ということは、人が住んでいない荒野 )をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『 出て来た自分の家に帰ろう 』 と言います」、25節 「・・・家は掃除されてきちんと片付いてい」ることが分かると、26節 「出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます」ということ。
この悪霊の性質を知った上で、信仰生活の姿勢を吟味したい。
私たちは、「汚れた霊」を追い出して頂いた者であること。
エペソ人への手紙 2章1〜6節 「・・・かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。・・・しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛の故に・・・」とある。
この救われた恵みとは、明らかに 《 罪の赦し & 罪性の清め & 聖霊の内住による新しい歩み 》 の全てを意味している。
ここで、主の25、26節の警告が重要になって来る。
「帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています」、「そこで出かけて行って・・・」とある状態に警告が必要なのだ。
主の十字架における救いが、全人格的領域における救いであるにも拘らず、唯、その初次的経験としての 《 罪の赦し ⇒ 犯した過去の罪の赦しにのみ留まり 》、その後一向に、それからの歩みに不注意でいるならば、「家は掃除されてきちんと片付いてい」る空っぽ・真空状態で危険だ。換言すると、恵みによって満たされていなければ危険な状態なのだと。
罪の赦しの後、直ちに自らの内的腐敗性に気付き、血潮による清めに与ることによって 《 聖霊の満たし、聖霊によって身も心も全て支配して頂くこと 》 に注意深くあるべきなのだ。
何故なら、26節 「自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住み付きます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」と。
七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアが( ルカ 8・2 )、良く主に仕え、復活の証人として 《 十二弟子ではなく、彼女が選ばれた理由 》 を学んだ時それは彼女が、出て行った悪霊の性質をよく知り、救い後の生活に注意深くあり、主から離れる隙を作らず、一挙手一投足主の導きに従ったからだと。

※ 「自分の家」とは、住んでいた罪人に愛着を持っていることの意 !! 主に明け渡された瞬時の歩みに注意深くありたい。

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2018年02月07日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 53


ルカの福音書11章5節〜13節

先週は、主が、1節 「私たちにも祈りを教えてください。」と願い出た弟子たちを指導された 《 祈り 》 に学んだ。
主と生活を共にして来た最後の最後、十字架の日に向けてのエルサレム行き最後の旅でのことだったが、主は、彼らに霊的渇きが起きるのを待って指導されたことが分かる !!

@ 先ず、2節 《 主ご自身を考えるべきこと 》 を。
a. 祈る時、最早、神を近付き難いお方としてではなく、主が「父よ」と呼ばれたのに等しく、信頼して呼ぶようにと。
b. その父が「聖なるものとされますように」とは、崇められるようにである。神が礼拝【感謝】されるべきこと。
c. 「御国が来ますように」と。御国とは、神の御心【聖、愛、義、あわれみ、まこと】が支配する国、それが迎えられるようにと。

A 3、4節 《 私たちは悉( ことごと )く神に依存している者との告白 》 を。
肉体的生活、霊的生活の両面における必要において。特に霊的必要性においては、罪を犯す可能性を持つ者との謙虚さ、その弱さの十分な自覚から出て来る祈り。

B 4節 《 隣人との健全な関係の告白 》 を。
神に 《 罪の赦しと罪を犯すことからの助けを 》 求めるのであれば、隣人から被る悪しき言動がどれ程のものであれ当然赦すべきだとの自覚で祈るようにと。
何故なら、マタイの福音書 18章21、22節 ⇒ 32、33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」とあるからである。

※ 主が指導された祈りは、祈りの基本姿勢であるとして、自らの祈りの生活を吟味しつつ祈りの生活に成長を、と。


今朝は 《 祈り手の心得について 》 学びたい。
5〜7節のたとえ話の結論は、8節 「この人は友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさ【根気強さ】のゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」にある。

このたとえ話から・・・

@ この 《 根気強さ 》 とは ?

9、10節 「求め【続け】なさい。・・・探し【続け】なさい。・・・たたき【続け】なさい」と語られている通り、祈りに求められている粘り強さを、三つの段階で力の度合いが加えられて行く様子で伝えられている。
アブラハムがソドム・ゴモラ滅亡の予告を聞かされた時、主の聖前で祈った祈りに重ねて考えたい。
創世記 18章16〜33節で、22〜32節 「アブラハムは、まだ主の前に立っていた。アブラハムは近づいて言った。『 あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。※ 24 もしかすると・・・ ※ 28 ※ 29 ※ 30 ※ 31 ※ 32 』 」と、初めは、「五十人」から、「・・・四十五人・・・四十人・・・三十人・・・二十人・・・そこに見つかるのは十人かもしれません」と、33節 「主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた」とあるのは、実に主の言われる 《 祈り手の姿勢 》 ではないだろうか。
主はアブラハムのその祈りに付き合ってくださった。
アブラハムにあった粘り強さには、人間的な勢いはなく、むしろ、25節の主のご性質に基づく祈りであり、自らの分が弁( わきま )えられた謙り【27、30、32節】があり、砕かれた姿勢がある。

A 主は、9、10節 「そうすれば与えられます。・・・そうすれば見出します。・・・そうすれば開かれます」と確約しておられる。

この「そうすれば」とは、《 根気強く祈る祈り手の、動機の純潔に対する 》 約束である点を見落としてはならない。
ルカのたとえ話に出て来る祈り手は、5、6節 「その人( 友だち )のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『 友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。 』 」とあるように、自分の為にではなく 《 友人の必要の為に、私を憐れんで頂きたいという動機からの祈り 》 だからである。
先のアブラハムの祈りも又、滅びが予告されたソドム・ゴモラに住む 《 甥( おい )のロトとその家族の救い 》 の為だった。
ヤコブの手紙 4章3節 「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い( 間違った目的、利己的 )動機で求めるからです」との警告があるが、根気強い祈りを捧げる際には、先ず、動機の純潔の如何を調べる必要がある。
ヨハネの手紙 第一 3章21〜23節 「・・・求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。・・・互いに愛し合うこと、それが神の命令です」とあるのも 《 愛に基づく動機 》 の如何が問われている。ヨハネの福音書 15章7節 詳訳 「もしあなたがたがわたしの内に生きるなら【わたしとの生命的結合の中に留まるなら】、又、わたしのことばがあなたがたの心の中に生き続けるならば、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば必ず叶えられます」ともある。

B 主が、8節 「必要なものを何でもあげるでしょう」とは ?

a. マタイの福音書 7章11節では、「ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」とある。
ここで確認しておきたい。あくまでも「良いもの」であるということ。ところが、私たちはあくまでも物の考え方・見方が狭く、近視眼的である為に、私たちの目には「パンを求めているのに石を・・・。魚を求めているのに、蛇・・・」が与えられているのでは ? と思うことがあるかも知れない。
仮にそのように思えても、「それならなおのこと」と、最善の物しか与えられないと信じて信頼することが重要。
b. ルカでは、13節 「ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」とある。
ギリシア語では、この聖霊に冠詞が付いていないので、聖霊ご自身を与えてくださるという意味ではなく 《 聖霊の賜物や働きのこと 》 と学者が言っている。とすれば、既に私たちに内住しておられるお方が、私たちの祈りに顕著に応えて、明確に働いてくださるとのお約束である。その意味で、マタイの福音書では「good things」と、複数形で書かれていることが頷( うなず )ける。アブラハムの祈りは応えられた。創世記 19章29節。
私たちは、このたとえ話の祈り手のように、友の必要に応えることの出来ない無力な者との自覚に立つ者であればある程、根気強く 《 聖霊の干渉を 》 求める者となる筈。

※ いよいよ素直に自らの無力さを認めて、隣人の必要の為に、憐れんで頂き、聖前に出る者でありたい。

posted by luckyfachan at 23:54| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする