2018年01月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 52


ルカの福音書11章1節〜4節

先週は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄っておられたベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリアの家でのこと、主を喜んで家に迎え入れたマルタが扱われたところに注目した。

@ もてなしも聖書の勧めるところではあっても、このマルタの在り方が見直されない限り、その奉仕は無意味・無価値と。
コリント人への手紙 第一 13章1〜7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません・・・」とある。
もてなすマルタの心は、40節で、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ惨めさが !! マリアに抱いた妬みは、彼女の喜びを奪おうとする憎むべき性質。もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかない奉仕は、受け入れられるものではない !!

A 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の奉仕が生まれると。
マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろそのマリアこそ、間もなく迎える、「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いだ人物。
真の黙想を知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われている、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出し、主の十二弟子すら及ばなかった、十字架の葬りの日の備えをさせた。

※ この意味において、互いの信仰生活にも「必要なことは一つだけです」の意を知って主にお仕えしたい、と。


今朝は、主が、11章1節d 「・・・私たちにも祈りを教えてください。」と願い出た弟子たちを指導された 《 祈り 》 に学びたい。
私たちが現在、『 主の祈り 』 として捧げている祈りである。
このように弟子が主に「教えてください」と願い出て来たこの時は、主と生活を共にして来た最後の最後、十字架の日に向けてのエルサレム行き最後の旅でのことだった。
弟子たちはこれまで祈ることをしなかった人たちではなかっただろう。ユダヤ人には祈りの習慣があり、祈りのない生活は考えられない。ところが、彼ら自身に祈る生活があったが、1節a 「イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると」が暗示しているように、普段から目撃して来ている彼らの目に映る 《 祈られる主 》 には、自分たちの知らない祈りの世界があるに違いないと感じたからではないだろうか ?
1節c 「ヨハネが弟子たちに教えたように」とあるが、主は、彼の様にはこれまで、教える形を取られなかったことになる。
主は、マタイの福音書 13章52節で、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」と言っておられるが、弟子たちを身近に置いて、聖書的知識の教育を施されたことが分かる。このことから、聖霊に満たされてからというもの、ローマ帝国を相手に、堂々と旧約聖書を引用して説教したのも理解出来る。
ところが祈りは、単なる教えによるものではないからだ。主は、彼らに霊的渇きが起きるのを待っておられたのだ !!
罪の赦しは赦されたいとの渇きが、罪性の清めは清められたいとの渇きがあって初めて経験する。霊的経験は皆そうである。
主が、ヘルモン山から下山された時のことに触れておきたい。マルコの福音書 9章15節 詳訳 「群衆は皆、イエス【が、まだ顔と姿が輝いたままで、聖なる山から戻って来られるの】を見て、非常に驚き、すぐ駆け寄って、そして挨拶した」とある。
それは聖父からの直接的な語りかけに与られたからであるが、その時の輝きは、その時だけの現象ではなく、主が祈られた時に醸し出しておられた常の姿だったからなのだ。

主が弟子たちを指導された祈りに注目したい。

@ 先ず、2節 《 主ご自身を考えるべきこと 》 を。

a. 祈る時、神を「父よ」と呼ぶようにと教えられた。
最早、近付き難いお方としてではなく、主が「父よ」と呼ばれたのに等しく。本来、神を父とお呼び出来る関係にはなかったのが弟子たち、私たちであるが、今は、ローマ人への手紙 5章10節 「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいた」身であり、主の十字架の犠牲によって神とは子の関係に回復したからである。聖書が啓示する 《 父のイメージ 》 は、15章11節〜【家出した放蕩息子の帰りを待って抱き抱える父】、マタイの福音書 6章32節【子の必要を知っている父】、へブル人への手紙 12章10節【子の益をのみ考える父】であり、罪に対しては厳格ではあるが、赦しの父でいて下さる。
b. その父が「聖なるものとされますように」とは、崇められるようにである。神が礼拝【感謝】されるべきこと。
c. 「御国が来ますように」と。御国とは、神の御心【聖、愛、義、あわれみ、まこと】が支配する日が迎えられるようにと。

A 3、4節 《 私たちは悉( ことごと )く神に依存している者との告白 》 を。

a. 肉体的生活の必要において。
仮に自ら働いて糧を得る力があったとしても思い上がらず、或いは、何らかの理由で糧が得られず、苦境に立たされているとしても呟( つぶや )かずに、自らの必要の一切は神の手に掛かっているとの、信頼と謙虚さの告白の祈りである。
b. 霊的生活の必要において。
罪を犯す可能性を持つ者との謙虚さ、その弱さの十分な自覚から出て来る祈り。コリント人への手紙 第一 10章12節 詳訳 「自分は動揺しない心を持っており、堅く立っていると確信している者は、罪に陥( おちい )らないように気をつけなさい」とある。

B 4節 《 隣人との健全な関係の告白 》 を。

主は 《 自らの罪に関しての謙虚な祈りを勧めて後 》、私たちの陥りやすい過ちを指摘するかのように、抜かりなく、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」と祈るよう勧められた。神に 《 罪の赦しと罪を犯すことからの助けを 》 求めるのであれば、隣人から被る悪しき言動がどれ程のものであれ、当然赦すべきだとの自覚で祈るようにと。
何故なら、マタイの福音書 18章21、22節 ⇒ 32、33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」とあるからである。

※ 主がご指導された 《 主の祈り 》 は、祈りの基本姿勢であるとして、自らの祈りの生活を吟味して祈りの生活に成長を。

posted by luckyfachan at 23:04| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 51


ルカの福音書10章38節〜42節

先週は、《 良きサマリア人のたとえ話 》 として良く知られている物語から、主が ※ 25節に登場する「律法の専門家」を扱うことになったことから 《 永遠のいのちを受け継ぐ人々とは、どの様な人なのか 》 を考えて、自らの信仰を吟味した。

@ 模範解答が出来る人ではなく、問題は 《 答えた所に、生きているかどうか 》 にある。
主が、彼の質問を受けて返された ※ 26節の質問に、彼は27節で模範解答をした。しかし主は、 “ あなたの答えは非の打ち所がない。但し、模範解答が出せたとしても、もし、そこに生きているのでなければ、知識だけでは無意味 ” と。

A 但し、そこに生きているとの生活の裏付けが重要だとしても、 “ しています ” と答えられる事にあるのでも、ない。
彼は強気で出て ※ 30〜36節の、36節 「だれが」 ? にも、やはり37節で正解を述べる。が、主の洞察は ※ 37節b’ ・・・だった。

B この良きサマリア人は主ご自身であって、 “ 私たちは出来ておりません ” と認めて謙り、その生き方に渇くのみ。
半死半生人のすぐそばを通った時、33節 「見てかわいそうに思」うかも知れない。しかしこの「サマリア人」にあった実際的行動は ? この人は民族的に蔑視されている人 !! しかし彼は、34、35節で為し得る限りの惜しみない献身( 時間的・財的消費、行き届いた配慮 )を !! 生来の私たちは、30〜32節の 《 強盗、無関心の祭司とレビ人 》。ローマ人への手紙 5章6〜8節が証している。

※ 27節が鍵 !! 罪人を愛する主の愛を知って初めて与えられる愛の注ぎだけが、「隣人を愛する」者とする。厳密に自らを省みて、主の如く生きる者でありたい、と。


今朝は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄られることがおありだったベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリア、その兄弟ラザロとの三人で 『 ヨハネの福音書 』 に名が出て来ている家でのこと。実際、家に喜び迎えたマルタにとっては思い掛けない出来事となったが、主がマルタを扱われたところに注目したい。
マルタが扱われることになったのは ?
人間的には、マルタに同情をすら感じて読むことがあったかも知れない。何故ならば、主を迎え入れるや、歓迎の意を表そうと心を砕いているのだから。確かに 《 もてなし 》 は、聖書が勧めている行為である ⇒ 「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 ローマ人への手紙 12章13節」。
ところが、もてなしているマルタの様子を見てみると、何と悲しいことが・・・ !! 主を感情的に訴えて出て来たのだ。
10章40節。「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『 主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。 』 」だった。
確かにもてなすことは褒められるべきことであり、是非とも、心を用いる者でありたいと、願うところではある。
しかし主は、そのマルタに同情を寄せるのではなく、彼女が訴えたマリアを弁護された。41、42節 「主は答えられた。『 マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩( わずら )って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。 』 」と。マルタには忠告だったのだ !!
主がマルタを諭された、「必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました」に注目したい。
マリアが選んだ良い方とは、39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」ことであり、主はマリアが選択したこの在り方こそ、私たちが必要としていることで、これ以外のことは 《 全て、二の次三の次・・・ 》 との意。

その理由 :

@ もてなしも必要ではあるが、このマリアの在り方を差し置いて為されても、無意味・無価値だから。

コリント人への手紙 第一 13章1〜7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は・・・」とあるように。愛の性質について、十五、挙げられているが、その中心は「自分の利益を求めない」にある。
もてなすマルタの心はどうだったか ? と見るならば、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ、惨めさが。折角主の為にとの思いから始めた筈のもてなしも、40節 「私だけにもてなしをさせているのを・・・」と言うことになろうとは !! マルタの心から出て来た 《 マリアへの妬み 》 は、憎むべき肉の性質である。マリアの喜びを奪おうとするのだから。もてなしは自発的なものではなかったのか ? 主が役割分担して、マルタに割り当てた奉仕ではない。マリアを羨( うらや )ましく思うのであれば、一緒に座れば良かった。しかし、もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかなく、喜んでではない !!

A 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の行動が生まれるから。

マルタを実践型、マリアを黙想型と評して、クリスチャンは両方のタイプを兼ね備えるべきだと言われる傾向があるが、単純に二つのタイプとして考えるべきではない。
主は、マルタの実践そのものを評価してはおられない。
彼女の行動それ自体を評価するどころか、むしろ、彼女がもてなしながらも ※ 41節 「いろいろなことを思い煩って、心を乱してい」ると、心を問題にされ、そこからの奉仕を戒められたのだから。マルタが、「主のことばに聞き入っていた」マリアから、その選択を破棄させ、自分のもてなしに引き抜こうとする態度を戒められたのだから。
又、マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろ、そのマリアこそ、間もなく迎える「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いで記念された人物。
真の黙想の何なるかを知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われているように、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出すのだから。
マリアは、主の十二弟子すら主の葬りの日に備えることが出来なかったことをした。

※ この意味において、互いの信仰生活にも、「必要なことは一つだけです」の意を知る者として、主にお仕えしたい。

posted by luckyfachan at 23:53| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 50


ルカの福音書10章25節〜37節

先週は、※ 17節、伝道の成果を喜び勇んで報告して来た七十二人への主のお応えから、何事かを主の働きの実として経験させて頂いた時の心得るべき姿勢を学んだ。

@ 先ず主は、彼らの ※ 17節 「悪霊どもでさえ私たちに服従します。」との成果に耳を傾け、18節で勝利したと証された。
弟子たちの報告を受けられた主には、一方( ひとかた )ならず喜びと安堵感がおありだったに違いないのだ。

A とは言え、そこで主は終わりになさらず、緊張感をもって忠告され、20節で釘を刺された。それは・・・
a. 消極的 : 17節b’ 「私たちに服従します。」に潜んでいる霊的高慢さの可能性・危険性・その弱さを警戒すべきだから。
19節で、主は穏やかに 《 授けられた権威の故の結果だったと 》 諭され、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく」と仰った。
b. 積極的 : 20節 「あなたがたの名が天に書き記されている」事実こそ究極の喜び、人がこの地上で経験し得る経験の中で、至高の、最も栄誉ある喜びなのだからと。
21節 「ちょうどその時」と、その感動の迸( ほとばし )りが、主を聖父への感謝の祈りに押し出した !! 十字架への道を歩まれる主の関心は、唯、私たち罪人の救いのことだけ。
24節で旧約の人々が見たいと願っていた救い主を 《 あなたがたは、今見て知っている 》 と、驚くべき特権であるとの事実を明確にされた ⇒ ペテロの手紙 第一 1章3〜16節。

※ 20節 「・・・を喜ぶのではなく、・・・を喜びなさい」との問い掛けは、私たちにおいては ? 救いを喜ぶ信仰を !! と。


今朝は 《 良きサマリヤ人のたとえ話 》 として良く知られている物語から、主が ※ 25節に登場する「律法の専門家」を扱われた出来事を学び、自らの信仰の在り方を吟味したい。
25節 詳訳 「その時( 別訳 : ちょうどその時 )、ひとりの学者が立ち上がり、イエスを試みよう( ためし、誘惑しよう )として言った」とある。どのような場面でのことか定かではないが、彼は 《 伝道から帰って来た七十二人の報告を受けた主が、弟子たちを指導している所に 》 居合わせたと考えられる。
23節には敢えて、「弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」とあることからも推測できるし、21節の主が聖父に、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と祈られた祈りには、主を試そうとしてやって来る律法の専門家たちの存在が意識されていると考えられる。
主は、この律法の専門家こそ「知恵ある者、賢い者」だとして、正面から彼をも扱い、目が開かれるようにと心を砕かれたのだ。主はエゼキエルに、「彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。 エゼキエル書 2章7節」と言われたお方だから、専門家が「聞く聞かない」は問題になさらずに、扱われたのである。
私たちが隣人に証しようとする時、相手の反応を恐れる余り顔色を窺( うかが )い、真理を伝え損ねる傾向があるのでは ?
彼らの「イエスを試みよう、誘惑しよう」とは、弟子たちを召し抱えているイエスという者が、何者かを調べて真価を知ろう !! もしかして何らかの非を暴いて辱( はずかし )められれば ? と。

さて、律法の専門家は「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことから 《 永遠のいのちを受け継ぐ人々とは、どの様な人なのか 》 を、28節 「イエスは言われた。『 あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。 』 」から考えたい。

@ 模範解答が出来る人ではなく、問題は 《 答えた所に、生きているかどうか 》 にある。

主が、彼の問い( ※ 25節 )を受けて、26節 「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と尋ねられた時、律法の専門家は、27節で模範解答をした。
主が、マタイの福音書 22章36〜40節で答えておられること。
しかし主は、 “ あなたの答えは非の打ち所がない。但し、模範解答が出せたとしても、もし、そこに生きているのでなければ、知識だけでは無意味。知識があなたにいのちをもたらすのではないから。あなたに必要なことは、生活によって裏付けられる証だ ” と言われた。コリント人への手紙 第一 8章1節 「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」。

A 但し 《 正しく解答した所に生きているとの生活の裏付けが重要だとしても 》  “ はい、実践しています ” と答えられる事にあるのでもない。

何と彼は、29節 「自分が正しいことを示そう【詳訳 : 非難を逃れよう/現代訳 : 自分が如何にそれを実行しているかを示そう/新共同訳 : 正当化しよう】として」、主に、「では、私の隣人とはだれですか。」と、恥ずかしげもなく尋ねる !!
彼は、 “ あなたがこの人々だと言えば、私は出来ていますとも。どうぞ言ってみて下さい ” と、強気で出ているが、何とも惨めな無知を曝( さら )け出しているに過ぎない。
彼は本当に出来ているのだろうか ? 彼は、30〜35節でたとえ話をされた主から、36節 「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と尋ねられて、やはりここでも、37節 「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と正解を述べる。ところが主の洞察は、同節b’ 「あなたも行って、同じようにしなさい。」と、 《 出来ていない 》 彼の現実を暴かれたのだから。

B この良きサマリヤ人は主ご自身であって、 “ 私たちは出来ておりません ” と認めて謙り、その生き方に渇くのみ。

半死半生人のそばを通った時、33節 「かわいそうに思」うかも知れない。しかしこの「サマリヤ人」の実際的行動は ? この人は民族的に蔑視されている人 !! しかし彼は、34、35節で為し得る限りの惜しみない献身( 時間的・財的消費、行き届いた配慮 )を !! 生来の私たちは、30〜32節の 《 強盗、無関心の祭司とレビ人 》。出来ていると思うなら、自らを知らないとして自戒を。ローマ人への手紙 5章6〜8節 「善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません」・・・が、その事実を語る。

※ 27節が鍵 !! 罪人を愛する主の愛を知って初めて与えられる愛の注ぎだけが、「隣人を愛する」者とする。厳密に自らを省みて、主の如く生きる者でありたい。

posted by luckyfachan at 23:53| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする