2017年12月27日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 48


ルカの福音書10章1節〜16節

先週は、主がエルサレムに向かう旅の始まりで出会った弟子志願者とのやり取りから 《 弟子として従う心得 》 を学んだ。

@ 57節の「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでも・・・」に着目し、58節 「・・・人の子には枕する所もありません。」と仰って、彼を扱われたことで。
“ あなたの献身的熱意は結構だが、本当に従える自分なのか ? ” 「枕する所もない」とは、地上的な便利さ、快適さとは裏腹の意。人として最低限これ位はあっても当然とする権利を捨てて、そこに甘んじることの意であるが、それでも従いたいと本気で志願するのか !! と。

A 59節b'の「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」に着目し、60節で彼の召命に従うように指導されたことで。
主は 《 父を葬ること、老後を見届けること自体 》 を否定しておられるのではない。それは全て、召命の問題である。
唯、弟子として生きる時の心得は、今、私は、何をするよう導かれているのかとの召命の明確さが必要であると。

B 61節の「ただその前に」に着目して、62節 「だれでも、手を鋤( すき )につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と、優柔不断さの問題に触れられたことで。
従いたいが、彼をして従うことを躊躇させ、障害となる「家の者」の存在による情的な問題。
挨拶することを禁じられた訳ではない。従うよう導かれているにも拘らず、「ただその前に」と、彼に踏み止( とど )まるよう、後ろ髪を引かせている存在への人間的愛着の問題。

※ 主を主として崇めて従う弟子の生活を吟味したい、と。


今朝は、10章1節 「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」とあるが、9章1、2節で遣わされた「十二人」とは別に、エルサレム行きの最後のこの旅に従って来た人々七十二人を派遣される際、主が彼らに与えられた忠告に注目を。
主は幾つかの重要な指示を与えておられる。
( @ ) 2、3節 「祈りなさい」から、「さあ、行きなさい」に、働き人の必要を祈る時、働き人となることは他人事ではない。祈りつつ、自らも又、主の収穫の為に重荷を持つべきこと。
( A ) 3節b 「狼の中に子羊を送り出すようなもの」と気遣って下さる御思いをしっかり自覚した信仰生活であるように。
( B ) 4節 「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい( 当時の生活様式、習慣などを理解する必要がある )」、5〜11節とを考え合わせる時、信仰を学ぶべきとの示唆。
( C ) 4節b 「道でだれにもあいさつしてはいけません」には、時間の用い方に注意深く、人々が救いを求めている時代であるとの緊急性を弁( わきま )えるようにと。エペソ人への手紙 5章15〜20節。
これら一つ一つの忠告をもって派遣された主が、13節 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう」と仰っておられるおことばに 《 主の魂を惜しんで嘆かれる御思い 》 を学んでメッセージとしたい。

@ 主の嘆きは ?

主が嘆かれた町 《 コラジン、ベツサイダ、15節のカぺナウム 》 は、主が宣教の拠点を置かれたガリラヤ地方の町々で、主の働きを身近で見て光栄に与り( イザヤ書 9章1節f )、働きをなさる主ご自身とは、どの町の人々よりも密着した生活の許された人々なのだ。
ご受洗後、直ちに赴( おもむ )かれた町々だったことを思い出して頂きたい。4章14、15、31、42節、その後、顕著な出来事は、何と言っても9章10〜17節、五つのパンと二匹の魚で男五千人を養われた奇跡がベツサイダでなされた。
13節で「おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら」との言及があるが、エゼキエル書 28章2〜23節で神から糾弾されている町々が !! である。
そこに、ガリラヤ地方の人々の頑( かたく )なさの程が伺える。見ながら神に立ち返らない。見たら信じると人々はよく言うが、 《 信じる 》 とは、見る見ないの問題ではなく、神に立ち返らせないのは、己を神としていたいだけのこと。自我の城を神に明け渡そうとはしない傲慢さが問題。

A その厳粛さの究極は、16節 「わたしを遣わされた方を拒むのです。」にある。

人々が弟子を拒む時、弟子を派遣された主を拒み、その究極は主を派遣された聖父を拒むという事実にある。
私たちがこの事実を本当に知っている者であるならば、拒む者への態度を吟味する必要がありはしないだろうか ?
主が迫害者サウロをどの様に扱っただろうか。「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」と言われたことを覚えたい( 使徒 26・14 )。サウロ、後のパウロは教会を迫害し、ステパノに抵抗し、彼を殉教死に追い遣った。主はパウロが教会を迫害した時、ご自身の体である教会が直面している暗黒を思われて 《 教会の痛みをご自身の痛みとし、教会と一体となり 》、その上でパウロの永遠の滅びを惜しみつつ「あなたには痛いことだ」と迫られた。
14節 「しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ」、15節 「カぺナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」という永遠の刑罰が待つのみだから。
私たちは誰かから「拒まれる」経験をしたことがあるだろうか ? もしあるとするならば、私たちの先ずの反応は ? 拒まれたことへの個人的( 自尊心を傷付けられたとか、理解されないとして自己を憐み )損失を痛み悲しむのだろうか ? 
それとも、主のように、拒む者の滅びとその厳粛さを思って嘆き、そこからの救いのみに心を砕く者であるのか ?
先週の夕拝では 《 エレミヤのすすり泣き 》 と言われる 『 哀歌 』 から学んだが、預言者は皆、神から託されたメッセージを伝えるその都度、彼らから迫害を余儀なくされるが、自分の為に泣く者ではなく、神への反逆による彼らの滅びを思って号泣する人々だった。

※ 主の御思いに与りつつ、魂の救いを担っての今日を !!

posted by luckyfachan at 18:34| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 47


ルカの福音書9章57節〜62節

先週は、51節に、十字架の日が秒読みで近づいているとの意識を固められた主が、最後の数ヶ月の宣教の旅を始められたと見て、その初め、53節 「しかし・・・サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」と、断られたことからメッセージを。

@ その理由は、53節a 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とある。
友好関係になかった町。宿の提供を求めたその目的に、とんでもない !! との腹立たしさが露骨に出たと考えられる。

A 弟子たちの反応は、54節 「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」だった。
欄外 ※ を見ると、正に、さながらエリヤ気取り。彼らの主を思う思いからではあるが、55節で主が彼らを戒められた以上、正義感からとは言え、肉的な怒り、報復の精神に基づくもの。同時に、同節欄外 ※ によると、自らの分を弁( わきま )えないとの主からの叱責が。驕( おご )りからくる霊的状態の無知を見る。

B 求めるべき態度は、弟子たちを叱責された主にある。
56節 欄外 ※ 「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」にある。
既に4章16〜21節で、「きょう、聖書のこのみことばが・・・実現しました。」と語られた時、イザヤ書 61章2節a 「主の恵みの年」で閉じられ、2節a’ 「われわれの神の復讐の日を告げ」を読まれなかった主の心である。「主の恵みの年」とは、18節の福音に生きるご生涯、「神の復讐の日」とは、テサロニケ人への手紙 第二 2章8、12節 「来臨の輝きをもって滅ぼ」す日のこと。

※ 十字架への道に進まれる主に近く歩む者でありたい、と。


今朝は、主がエルサレムに向かう最後の旅の始まりで出会った弟子を志願する三人の人物とのやり取りで明らかにされた 《 主の弟子に求められる霊的資質について 》 学びたい。
主がここに出て来る三人に、“ 弟子として従うとは、どの様な生き方をもってなのか ? ” を明確に示されたことから学ぶ。

@ 57節 「ある人がイエスに言った。『 私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます 』 」。

この人には、如何にも捨て身で献身的でさえある熱意が伺える。彼の目に映った主の【51節 リビングバイブル訳 : 鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれ】る姿に感動したからに違いない。彼の持ち前の犠牲的精神は刺激され、このようなお方に出会ったからには、生涯を投げ打って従って行こうとの意欲が掻き立てられた。
しかし主は、彼の「あなたのおいでになる所なら、どこにでも・・・」という思いに着目して、彼を試された。58節 「すると、イエスは彼に言われた。『 狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。 』 」である。
主は彼が【自分を】知るように仕向けられた。
“ あなたの献身的熱意は結構だが、本当に従える自分なのか ? 「どこにでも・・・」と言うが、わたしがいる所とは、どのような所であるのか知った上でのことなのか ? ” と。
その熱意に底にあるもの、何が彼を動かしているのか ?
富める若き司がそうであったように、皆自分を知らない( マタ 19・16〜、ルカ 18・18〜 )。
若き司は、「永遠のいのち」が欲しいと言って近づいて来たが、いざ、財産を貧しい人々に分け与えてからと言われた時、彼は初めて自分を知った。富に執着する心があって、それを捨てなければならない位なら結構 !! だった。
この事実を知った時、 “ その自分の現実を何とかして頂きたい。私は「永遠のいのち」が欲しいのです ” と言うのか !!
主の、この「枕する所もない」とは、地上的な便利さ、快適さとは裏腹の意。人として最低限これ位はあっても当然とする権利を捨てて、そこに甘んじることの意であるが、それでも従いたいと本気で志願するのか !! 
彼に求められたことは、もし自分にその様な生き方が求められても、出来るかどうか分からなくても、 “ 従いたいので受け入れて頂きたい ” と言うのか !! である。もしその願いさえあるならば、訓練はそれからだから。

A 59節 「イエスは別の人に、こう言われた。『 わたしについて来なさい。 』 しかしその人は言った。『 まず行って、私の父を葬る【詳訳 : 父が亡くなるのを待つ】ことを許してください 』 」。

この人は、主の招きそのものを拒んだのではない。従う意志はあるが、 “ 今ということになると、それは出来ない。ちょっと待って頂きたい ” という姿勢。主がその彼に言われたことが、60節 「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広め・・・」だったとすれば、主は、彼の「まず行って」に着目されたのだ。
主は、 《 父を葬ること、老後を見届けること 》 を否定しておられるのではない。それは全て、召命の問題である。
テモテの手紙 第一 5章8節 「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」とある。唯、弟子として生きる時の心得は、今、私は、何をするように導かれているのかとの召命の明確さである。然( しか )るべき人に委ねて、私の召しは ? を明確にして従うという明け渡しの姿勢である。
為すべきことが何であるのかを知りながら、保留にする生き方、生活を戒めようとして、なのだ。

B 61節 「別の人はこう言った。『 主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください 』 」。

主はここで、彼の「ただその前に」に着目された。彼は、二番目の人に似ているが、前者は 《 召命の問題 ⇒ あなたは私に従いなさい 》 であるが、この別の人の場合は、主の答え、62節 「だれでも、手を鋤( すき )につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」から見ると、優柔不断さの問題なのだ。従いたいが、彼をして従うことを躊躇させる、障害となる「家の者」の存在による情的な問題。
挨拶することを禁じられた訳ではない。従うよう導かれているにも拘らず、「ただその前に」と、彼をして言わせた、後ろ髪を引かせている存在への人間的愛着の問題。

※ 主を主として崇めて従う弟子の生活を吟味したい。

posted by luckyfachan at 23:44| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 46


ルカの福音書9章51節〜56節

先週は、主が弟子たちの霊的問題を見逃さずに、その都度厳格に扱われるお方であることに注目した。

@ 主が扱われた弟子たちの肉的性質は何だったのか ?
a. 46節 詳訳 「ところが、弟子たちの間に、彼らのうちで、誰が一番偉いか( 即ち、他の者よりも長所、価値、権威の点で抜きんでているか )ということで議論が起こった」に見る。
この「ところが・・・」は前節を受けて、そんな事はさて置き !! と、人との比較で、誰よりも上にとの傲慢( ごうまん )な罪深い思い。
b. 49節 「・・・仲間ではないので、やめさせた」に見る。
自分たちに出来なかったことでも彼らには結果が出たことへの嫉妬心が心の根にあってか、「仲間ではない」という理由を盾に、「やめさせ」るとは、何という大それた出方。
仲間意識が排他的になる時、最も大切な 《 愛の視点 ⇒ 主がどう思われるか 》 を失い、自分こそが一番正しいとして裁き、決して耳を貸さない態度を取ることで独善的になる。

A 主は何故、弟子たちの肉的性質を黙認せずに扱うのか ?
ガラテヤ人への手紙 5章17、21節c 《 聖霊とは対立関係 》 だから。

B 主のご性質こそ、私たちが渇いて求めるべき性質 !!
主は、48節 「一番小さい者( 謙遜な者 )が一番偉い」と言われた。弟子たちが軽視する者【子供に代表される、人間的標準で卑しめられている者】への接し方における愛の如何。
実に主の偉大さこそ、見下されるべき私たち罪人を愛し、命すら捨てて下さったご生涯に証されたと、覚えたい。

※ 肉の扱いには、当然痛みを覚えるが、見逃さずに扱われた主の厳格な姿勢を愛と覚え、お互いの求める所としたいと。


今朝からは、もう既に9章10節からの、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた奇蹟、弟子たちへのご受難の吐露、後のヘルモン山での姿変わりに始まった 《 主の後期伝道が、エルサレムに向かっていよいよ緊迫感を増していく 》 働きに注目することになります。
51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と、ここからは十字架の日が秒読みで近づいて来ているとの意識を固めながらの数ヶ月の宣教の旅となる。
今朝は、ガリラヤ地方での働きに終止符を打たれて【A.D.29年】、いよいよエルサレム行きの初めの場面でのことになる。52節 「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した【受け入れてもらえなかった】」場面。今日の注目はここであるが、その後の道程を展望しておきたい。
10章38節 「さて、彼らが旅を続けているうち、・・・ある村にはいられると」とあるのはベタニヤのことで、ベタニヤに立ち寄られてから ⇒ 13章22節 「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」 ⇒ 18章31節 「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『 さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます・・・ 』 」、35節 「イエスがエリコに近づかれたころ・・・」 ⇒ 19章1節 「それからイエスは、エリコにはいって・・・」、28節 「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた」とは、受難週のエルサレム入京である。
今朝の記事に戻りたい。主には、いつもと違った雰囲気が醸し出されていた。51節 リビングバイブル訳 「鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれ」た主は、使いの者を出されて、宿を取る準備をさせた。

ところが、53節 「しかし・・・サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」とあり、断られたのだ。

@ その理由は、53節a 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とある。

場所は何と言っても、友好関係にある町ではない。使者たちは、宿を提供してもらう為に、その目的を話しただろうか ? その場合、サマリヤ人たちは、 “ 何故、私たちが協力しなければならないのか !! ” という腹立たしさが露骨に出たと考えられる。
それは、ユダヤ人とサマリヤ人とは、長い歴史を通じて緊張関係にあったことを鑑( かんが )みれば当然なことと考えられる。
自らを生粋の、神の選民であると誇るユダヤ人から、アッシリヤとの雑婚によって生存して来た人々だとして蔑視されて来たのだから。かつてバビロン捕囚から、エルサレム再建工事の為に帰還が許されたユダヤ人たちを罵( ののし )って妨害した人たちが、このサマリヤ人だったのだ。
主の初期伝道で訪れた、サマリヤの町スカルでのこと。主が「水を飲ませてください」と、一人の失われた女性に近づかれた時、彼女から「あなたはユダヤ人なのに、どうして・・・。 ヨハネの福音書 4章7、9節」と反感を買われたのに同様。

A 弟子たちの反応は、54節 「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」だった。

欄外 ※ を見ると、さながらエリヤ気取り。カルメル山で預言者エリヤが、偶像バアルの預言者四百五十人を相手に火を呼びおこしたように、である。マルコの福音書 3章17節 「雷の子」と呼ばれたのは、彼らの激しい性格が意味されているのでは ?
彼らの主を思う思いからではあるが、55節で主が彼らを戒められた以上、正義感からとは言え、肉的な怒り、報復の精神に基づくもの。同時に、同節欄外 ※ によると、自らの分を弁( わきま )えないとの、主からの叱責が。驕( おご )りからくる自らの霊的状態に無知なのだ。

B 求めるべき態度は、弟子たちを叱責された主にある。

56節 欄外 ※ 「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」にある。
このことは既に、4章16〜21節で明確にされていた。「きょう、聖書のこのみことばが・・・実現しました。」とある。即ち、18節の要約である、19節 「主の恵みの年を告げ知らせ」であり、それが成就したと語られた時、イザヤ書 61章2節a 「主の恵みの年」で閉じられ、2節a’ 「われわれの神の復讐の日を告げ」を読まれなかった主の心である。「主の恵みの年」とは、18節の福音に生きるご生涯の年月であり、「神の復讐の日」とは、主の再臨による裁きの日【テサロニケ人への手紙 第二 2章8、12節 「来臨の輝きをもって滅ぼ」す日】のこと。

※ 十字架への道に進まれる主に近く歩む者でありたい。

posted by luckyfachan at 00:28| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする