2017年11月25日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 44


ルカの福音書9章37節〜45節

先週は、28、29節 「・・・御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」という 《 主の姿変わりの意義について 》 考えた。

@ 主ご自身にとっての意義について :
ご受難を吐露された主には、激励が必要だったこと。
主が、進まれる十字架の道を吐露するや否や、立ちはだかるサタンの挑戦状を、「神のキリスト」と告白したペテロの口を通して突き付けられた時、28〜30節 「モーセとエリヤ」の登場と、聖父の顕現により激励を受けられた。

A 弟子たちにとっての意義について :
ペテロは、ペテロの手紙 第二 1章16〜18節 「キリストの威光の目撃者なのです」との経験があったからこそ、ローマ帝国の大迫害下で使命を全うし得、ヨハネも又、その時のヘルモン山で目撃した主を見ていたから( 黙示録 1章9〜20節 )激励となった。
この経験は、宣教する弟子たちに必要だった。証人である私たちにおいても同様。日々主を見る生活に留意したい。

B 37節 「次の日、・・・山から降りて」に、主の献身の証を。
33節で弟子たちが、「ここにいることは、すばらしいことです」と絶賛したのは、いつまでも留( とど )まっていたい経験だったからだ。しかし主は 《 十字架を目前に垣間見せて頂いた栄光を背にして 》 受難を飲み干すべく下山された。
主が、人の子としてこの世に生を受けられたご目的を、十字架の死に至るまで忠実に果たされる為の下山である。

※ ローマ人への手紙 15章1〜6節 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」というご生涯を、瞬時全うされた主に倣って、私たちも心してその歩みに従いたい、と。


今朝は主が 《 姿変わりを経験されたヘルモン山から下山 》 されるや否や、対応を迫られた問題に注目したい。
その問題とは、主が、41節 「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と言わざるを得なくされたこと、即ち、40節 「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、・・・できませんでした。」と、ここにある。
コリント人への手紙 第一 13章7節 「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍」ばれるお方によるおことばである時、問題の深刻さに注目しなければならない。
私たちが、自分に不都合だから言うのとは次元が違う。
主ご自身の個人的な感情の問題ではなく、いつまでも一緒にいる訳にはいかない、極めて緊迫している時期での有様への危機感、そこから来る嘆きである。主は9章22節で、間近に迫っておられるご受難について語られたばかり。
更に、主は、「霊を追い出してくださるよう」にと願っている父親に、42節 「その子をいやし・・・渡され」、その御業を見た、43節 「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた」、44節 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と、主の心と思いとは、十字架の日に向けられているのだ。
その後の記事、51節の、「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ・・・」との言及からでも分かる。
《 不信仰 》 を深刻な問題として取り扱われた時、主は、41節 詳訳 「ああ〈 信仰のない者たちよ 〉」と呼び掛けられた。
日夜宣教に携わりつつも悲嘆される主の重荷は、「曲がった今の世」の実感そのものである。後、しばしばご自身の重荷を吐露されるおことばに、13章34節 「ああ、エルサレム、エルサレム。・・・それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」、19章41〜44節 「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた・・・」との嘆息が。
この不信仰への嘆きは、時代を構成する一人一人の不信仰の実態を嘆かれてのこと。ここでは、側近の弟子たちがそうであっただけに、抱かれた悲嘆は大きい。

@ 主の嘆かれた、弟子たちの不信仰とは ?

40節 「お弟子たちにはできませんでした。」とあるが、既に、9章1節 「彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった」上での結果であったことにある。
その当初、7〜9節の 《 国主ヘロデが脅威を抱く程の結果 》 が見られた。そこには、彼らの主の召命への忠誠があり、緊張感があったからなのだ。にも拘らず、今は !!
主が霊に取りつかれたその子を癒された後に弟子たちは、「・・・そっとイエスのもとに来て、・・・ 『 なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。 』 マタイの福音書 17章19節」と尋ねた。
主の答えが、「それは信仰が小さい〈 堅くより頼む信頼の欠如の 〉為・・・ 同 20節 詳訳」だったと。
更に、「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。 同 21節」と。主への信頼に、雑念の入る余地を与えない真面目さ、真剣さが必要だと。
主への信頼とは 《 既に授けられた「力と権威」を忠実に用いるという行動に出さえすれば 》 与え主である主が働かれるとの信仰。そこに人間的な煩( わずら )い、恐れ、結果への不安等々はなく、それらの雑念を振り払う真面目さが肝要。

A しかし主は、弟子たちの不信仰に失望させられつつも、弟子たちを諦めずに 《 信仰を鼓舞された 》。

a. 41節d 「あなたの子をここに連れて来なさい。」と、弟子たちの前で、42節 「・・・それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」と、尚も、業をなさる主を目撃させることによって。
マルコの福音書 9章14〜27節【17節 「私の息子を」 ⇒ 22節 「私たちを」 ⇒ 24節 「不信仰な私をお助けください。」】との叫びにまで導かれて、わざを行われる主をである。
b. 43、44節 詳訳 「そこで、人々はみな、神の偉大な力〈 ご威光、崇高さ 〉の証拠を見て驚嘆した。ところで、一同がイエスのされた全ての事に驚いている間に、イエスは弟子たちに言われた。・・・人の子は、人々の手に渡されようとしている」と、弟子たちの意識を直ちに 《 業にではなく、究極目的である受難に移し 》 危機感を持たせることによって。

※ 主と歩みを共にする 《 信仰に生きる主の弟子 》 でありたい。

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2017年11月19日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 43


ルカの福音書9章28節〜37節

先週、主が弟子たちの霊的状態を確認されてから、22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学んだ。
ペテロの告白 ※ 20節c 「神のキリストです。」を待たれてなされたのが 《 重荷の吐露 》 であるが、ここに三つの事を学んだ。

@ 主のご生涯の方向についての明言であること。
ユダヤ人たちが求めていたメシヤ像は、ローマ帝国に太刀打ち出来る【奇蹟を行う成功者、権威者】。彼ら同様、弟子たちにおいても少なからず抱いていた幻。その為、主のこの明言は、弟子たちにかなりの衝撃を与えたに違いない。しかし主は 《 受難を通過して後、勝利される 》 と明言。

A 23節は、弟子たちにも求められる生涯との明言であること。
「自分を捨て」とは、ピリピ人への手紙 2章4〜8節が模範であり、人類の贖( あがな )いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられたこと。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
聖霊によって明るみにされた 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。

B 但し、主のご生涯は、あくまでも自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。
弟子たちにも、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。

※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい、と。


今朝の場面は、恐らくガリラヤ湖から数十キロ北に位置するへルモン山ではないかとされているが、28、29節 「・・・御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」という 《 主の姿変わりの意義について 》 考えたい。
この出来事は 《 主がご受難の重荷を吐露された直後のことだった 》 との兼ね合いで見る時、その意義が見えて来る。

@ 主ご自身にとっての意義について :

ご受難を吐露された主には、激励が必要だったこと。
主は、ご自身の受難を初めて聞くことになった弟子たちの反応に、少なからず、危機感を覚えられたからである。
マタイの福音書 16章21〜23節に、「・・・するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『 主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。 』 」との言及があり、主がそのペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う必要に迫られたと伝えていることで分かる。その後で ※ 24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と問い掛けたのは、弟子として従う彼らの本気度を確かめる必要からで、従うには覚悟なしでは適わないとの厳格な扱いだった。
主は、ご自身が進まれる十字架の道を吐露するや否や、直ちに妨害しようと立ちはだかるサタンの挑戦状を、「神のキリスト」と告白したばかりのペテロの口を通して突き付けられた時、戦慄されたに違いない。
そこで主は、そのお気持ちを聖父に注ぎ出すべく、ルカの福音書 9章28節 「ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた」のだ。その主が何と !! 29節 「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝い」ており、30節 詳訳 「すると見よ」と、サタンの挑戦を受けて聖父に近づかれた御子の必要を最も知る聖父が、「モーセとエリヤ」をも、栄光のうちに登場させ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話」をするように導かれたのだ。
この「ご最期」とは、【エクソドス ⇒ 出エジプト記の名称であり、旅立つ・出発・退出を意味する】。出エジプト記は【イスラエルがエジプトを出るその夜、屠( ほふ )った小羊の血を家々の二本の門柱とかもいにつけて神の裁きから免( まぬか )れ】、エジプトを脱出した記録の書。正に、主は屠られて流す血によって、人類を神の裁きから免れさせるお方である。
モーセはこの事実のみならず、あらゆる事実を通して主のご最期について語り、エリヤは預言者を代表して共に、 “ 私たちは、創世記 3章15節で約束された 《 サタンの頭を打ち砕く十字架による 》 贖( あがな )いを預言し続けて来ました ” と語り、主と厳粛な会話が取り交わさたのだ。
人の子としての主は、どんなにか励まされたことか !!
その上、この状況を見ておられた聖父が、35節 「すると雲の中から、『 これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい 』 」と、あの受洗の時に同様、直接顕現されたのだ。

A 弟子たちにとっての意義について :

ペテロが後、ネロ皇帝の大迫害下にあって力強く教会を激励し得たのは、ペテロの手紙 第二 1章16〜18節 「・・・この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と言い得たことにある。
《 主の姿変わり 》 を目撃した彼らは、主への畏怖の念に打たれた。それを、9章33節の突拍子もない提案に、34節の恐怖心に、36節の沈黙した姿に見る。
ヨハネが迫害下で激励されたのも、黙示録 1章9〜20節の主を、ヘルモン山で目撃していたからである。
この経験は、宣教する弟子たちに必要だった。証人である私たちにおいても同様。日々主を見る生活に留意したい。

B 37節 「次の日、・・・山から降りて」に、主の献身の証を。

33節で弟子たちが「ここにいることは、すばらしいことです」と絶賛したのは、いつまでも留( とど )まっていたい経験だったからだ。しかし主は、一瞬の間でも垣間見せて頂いた栄光を背にして、十字架の受難を飲み干すべく下山された。
主が、人の子としてこの世に生を受けられたご目的を、十字架の死に至るまで忠実に果たされる為の下山である。

※ ローマ人への手紙 15章1〜6節 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」というご生涯を、瞬時全うされた主に倣って、私たちも心してその歩みに従いたい。

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2017年11月12日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 42


ルカの福音書9章18節〜27節

先週は、四つの福音書全てに記録されている 《 五つのパンと二匹の魚 》 の奇蹟から、13節 「しかしイエスは、彼らに言われた。『 あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。 』 」と、弟子たちの ※ 12節の提案を退けられた主のお心に学んだ。

@ 弟子たちの動機を問題にされた主。
主は、その環境を問題にした彼らの短絡的発想 《 だから無理だ !! とする 》  愛の欠如 !! を問題にされた。
弟子たちは、11節 「喜んで彼ら( 群衆 )を迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」主に、「解散させてください」という無関心さ !!
主は常に己の必要にではなく、聖父の必要に生きるべく、瞬時ご自身を明け渡しておられたのだ。

A 弟子たちの不信仰を問題にされた主。
主は弟子たちが心配した 《 日が暮れ始めた事、大勢の人々に給食が必要である事、給食の調達が困難な場所である事 》 を知っておられる。主の ※ 13節 「あなたがたで」に、13節b 「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません」、〈 それとも、まさか 〉「私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか」と言った時の彼らには、主を期待する信仰が、微塵もない。

B 弟子たちのこれらの実情【愛も信仰もないという現実】を咎( とが )めず、退けずに、主の働きの為に彼らを教育された主。
14節 「人々を・・・すわらせなさい」、16節b 「群衆に配るように弟子たちに与えられた」に見る主の内的強さ。

※ 忍耐の限りを尽くして真理に導かれる主に学びたい。


今朝は、主が弟子たちの霊的状態を確認され、9章22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学びたい。
主が弟子たちに、十字架による受難予告を吐露された初めてのものである。彼らは既に、主のご奉仕も半ばを迎えた半年前には使徒として選ばれていたものの、未だ、主のご受難についてお話して頂ける状態にはなかったからである。
それは、あくまでも彼らの主を知る経験の不確かさの故にではあるが、 《 五つのパンと二匹の魚による五千人の給食 》 を目撃し、又、その直後の 《 水上歩行の出来事、四千人の給食 》 があって後( マタ 14・25、15・32〜 )、遂に重荷を打ち明ける為に彼らを扱われた。
主は、彼らを試験された。20節 「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。その前に、18節 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と質問をされた。弟子たちは、19節 「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています」と答えている。
この評判の全てを主は知っておられたが、敢えて聞かれた。
それは彼らの理解をより確かなものにしたいとのお考えから。この世の人々の言う人物【偉大な働きをする人、殉教者、英雄的存在 ⇒ 旧約当時の人々がそのように認めて、彼らに従順だった訳ではないが、過去の歴史的事実として見る限り、権威ある働きをしたとして彼らを認めざるを得なくされてのこと】とは違う任務を担っていると強調する為にである。
ペテロの20節c 「神のキリストです。」の答えは【マタイの福音書 16章17節 「あなたは幸いです・・・」】と主の御心に叶った。主のご受難の吐露は、この告白を待ってのことだった。

《 主のこの重荷の吐露 》 から、三つのことを考えたい。

@ 主のご生涯の方向についての明言。

人々は、五つのパンと二匹の魚の奇蹟を見た時、ヨハネの福音書 6章14節 「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、主を ※ 15節 「王とするために、むりやりに連れて行こうと」した為、それと知られた主は、「ただひとり、また山に退かれた」とある。
ユダヤ人が求めていたメシヤ〈 救世主 〉は、ローマ帝国に太刀打ち出来る人であって、このような奇蹟を行う成功者、権威者こそ適任だとして熱狂的になった。弟子たちにおいても少なからず、同様の思いを抱いていた幻でもあった。
弟子たちは辛うじて、一般の人々とは違って、主を「神のキリスト、生ける神の御子キリスト」と告白したものの、主の復活に、使徒の働き 1章6節 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と、〈 未だに、世的な成功者としての主を期待していただけに 〉、主のこの明言( ルカ 9・22 )には、失望に近い衝撃を受けたに違いない。しかし、主は受難を通過して勝利されると明言。 『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 92、93p “ 黙示録では、「獅子」ではなく「小羊」が、神、王、牧者、審判者のシンボルとして用いられている。それは常識的な発想を覆していく力、逆説的な王国の姿を示している ” とある。

A 弟子たちにも求められる生涯であるとの明言。

23節 「イエスは、みなの者に言われた。『 ・・・自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい・・・ 』 」と。即ち、主の弟子でありたいならば、〈 主の歩まれる道、生き方 〉を〈 自分の道、生き方 〉にするようにと。
「自分を捨て」とは、自分の権利を主張せずに隣人の権利を認め、尊重し、その為に主に自らを明け渡すこと。
ピリピ人への手紙 2章4〜8節は、主の模範である。罪人である私たちの救いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられた。即ち、聖なる方が、自らの尊厳を捨てて罪ある者として十字架で命を捨てられた。誤解されて、濡れ衣を着せられ、裁かれる道を。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
即ち、聖霊の光によって明るみにされた私たちの 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。そこに生きる時にのみ、真のいのちがあり、主の為の実がある。

B 但し、主のこのご生涯は自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。

主の受難は、主の聖父を愛するが故の自主的選択である【ヨハネの福音書 12章27節、ルカの福音書 22章42節】。弟子たちに主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。

※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい。

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