2017年10月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 40


ルカの福音書9章1節〜10節

先週は、〈 長血をわずらう女の割り込み 〉によって、後回しにされていた 《 ヤイロの求め 》 が応えられた出来事に学んだ。
ヤイロは、娘が死にかけているので何とか「家に来ていただきたい」と、8章41、42節、一刻の猶予も許されない状況にいたが、予期せぬ割り込みによって主の手が取られている間に、彼が最も恐れていた悲報を聞く羽目に( 49節 )なった時のこと。
この悲報を傍らで聞かれた主が、50節 「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われたおことばから、三つのことを学んだ。

@ 「恐れないで」とは ?
詳訳では、「驚きに捕えられては【恐怖に打ちのめされては】いけない」である。そのような事態で〈 驚き、恐怖 〉を抱くことがあっても、その虜にならないようにとの意味。

A 「恐れないで」いる為には ?
「ただ信じなさい」と仰るお方への信頼を、マルコの福音書 5章36節 ※ 「信じ続けなさい」と、初めの信仰同様の持続を。
何故なら、主が「これを聞」かれたのは、49節 「イエスがまだ話しておられるときに」であり、主は女と言葉を交わしておられた間も、ヤイロの祈りを覚えておられるから。

B 「恐れないで」いる結果は ?
主は、50節b 「そうすれば、娘は直ります」と宣言されたように、ご自身を死から甦らせる復活の主であることを証された。ラザロの許に行くのを遅らせたのも、彼を復活の証人とするためであったに同様。
結果がどうであれ、全て主の栄光の為に考えておられる。

※ いつでも聖父を信頼された主に倣って信じる信仰を、と !!


今朝は、主の働きが拡大していく中で、弟子たちを召し出した目的に適うべく 《 徐々にやがての日 》 、即ち、主が天に召されて後、宣教の担い手・後継者として立つ日に向けての訓練の一環として伝道に派遣された記事に注目したい。
弟子たちの本格的な派遣は、ペンテコステを待たなければならなかったが、彼らは召しへの自覚を持つ必要があった。
復活の主が、使徒の働き 1章4、5節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と仰っておられるように、主の証人として世に出て行くには、肉による無力さのままでは到底適うものではないからである。
この意味では、ここで派遣された弟子たちの霊的状態を見る限り、派遣に備えられた状態ではなかった。つい、8章25節の 《 あのガリラヤ湖上での出来事 》 では、荒れ狂う嵐を治められた主を見て、「この方はどういう方なのだろう。」と驚いた程度で、主との霊的経験が不確かだったのだから。
しかし、使徒となるべく召された弟子たち。彼らをご自身がなさったように、ご自身の働きを見よう見まねでも理解し、及ばずながら担い手として当然知っておくべき基本的な姿勢について手解きされる必要による、今朝の記事になる。
旧約時代、 《 預言者、王、祭司 》 に限って、彼らのその都度の働きの為に聖霊を注ぎ、使命を遂行させたのに同様、9章1節 「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになっ」て、派遣されたということである。
こうした背景を踏まえた上で、弟子たちが受けた訓練から、お互い、主の証人として弁( わきま )えるべき姿勢について考えたい。

@ 2節 「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために」、6節 「出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した」、主の派遣目的の弁えを。

弟子たちは、忠実だった。主は人々の必要について、霊的必要の為に福音【罪からの救い】と、肉体的必要の為に病気の癒しをと命じられたが、主の指導の通りに自らを提供した。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」とある詩篇 23篇は、主を、私たち人としての霊肉の極めて現実的な必要を考慮されるお方として告白されている。
使徒の働き 2章に出て来る教会では、魂の救いの為の霊的養いと共に、人々の生活の必要の為にも心配りがなされた。
エルサレム教会の指導者ヤコブも手紙の中で、「信仰も、もし行いがなかったならそれだけでは、死んだものです。 2章17節」と忠告している。

A 3〜5節 「イエスは、こう言われた。『 旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。・・・あなたがたを受け入れないばあいは・・・ 』 とは、悉( ことごと )く、派遣者を信頼すべきことを。

命じられた出で立ちは、何と質素で、軽装であることか !!
エリヤが三年六か月の日照りの時、主からの ※ 列王記 第一 17章4節 「烏( からす )に、そこであなたを養うように命じ」、9節 「そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」に同様、信仰のみ。
即ち、主を完全に当てにする信仰が必要であること。
受け入れられないという困難にも遭遇するであろうが、その事実にも恐れる必要もなく、その場合には、「彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」と。
異邦の土地を旅してから聖なる地に入る時、国境で足とか衣から汚れた塵を払う行為だったが、福音を受け入れないことへの戒め、警告を与える為の指導である。

B 10節b 「それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた」と、霊的扱いに与るべきことを。

宣教の結果は、7〜9節 「国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた・・・」を引き起こす程の成果を見た。主お一人でしておられた働きを、十二人の弟子たちがするのを見た人々が口々に、弟子たちを派遣した主を賞賛し、主に脅威を抱いたからである。
いつでもここが重要。この10節b 「それから」とは、 《 彼らの報告を聞いてから 》 ということである。主の耳にはもう既に、宣教によって得た人々からの反響が届けられて、弟子たちを働きの成果から引き離す必要を覚えられたのだ。
酔いしれるべきではない。弟子たちの肉には危険なこと。それらの結果は、主が ※ 1節 「力と権威とをお授けになった」のであって、弟子たちの何かによったのではないから。

※ 私たちも又、弟子たちのようにこの世に派遣された者としての自覚を頂いて、御心に適った証人でありたい。

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2017年10月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 39


ルカの福音書8章40節〜59節

先週は、宣教の拠点カぺナウムに ※ 40節 「帰られ」た主を待ちわびていた群衆に対応された二つの出来事の中の ※ 43節 「十二年の間長血をわずらっていた女」の癒しに学んだ。
主は彼女の信仰を48節で評価されたが、その信仰とは ?

@ 44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」という遠慮と勇気ある信仰。
主が ※ 45節 「わたしにさわったのは、だれですか」 《 多くの人々が押し合いへし合いする中、他の人とは違った触り方をした人がいる 》 と言われた。
彼女の病気は、彼女に触れる物は全て汚れた物となるとされていた性質上、紛れ込む行為は控えられるべきだったが、律法の中心は愛との信仰で主に触れたのだ。

A 47節 「女は、隠しきれないと知って【詳訳: 気づかれないでは済まないのを見て】、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」潔い、謙りの信仰。
彼女は、主のその声を退けて、そっと帰って行く選択肢もあったが、帰るわけにはいかないとする信仰があった。
「震えながら進み出て」とある限り、自分への人目を恐れたのだが、恥と屈辱とを当然とする信仰だったのだ。主は、その彼女を敢えて御前に引き出し、しかも、そこに居合わせた「すべての民の前」に出させた。彼女に「さわったわけ」を証させることによって、彼女には肉体の癒しに勝る信仰の承認を得させ、群衆たちに、主を知る機会とされた。

※ いつでも正直に主の御前に出、主へのひた向きな信仰をと。


今朝は、主の帰りを待ちわびていたカぺナウムの人々の間で為されたもう一つの癒しの出来事、42節 「死にかけていた」ヤイロのひとり娘の癒しに注目したい。
実はこの娘の癒しは、先週学んだ〈 長血をわずらう女 〉よりも先に、主に届けられていた祈りだった。
何故なら彼は、岸辺で群衆たちに迎えられている( マコ 5・21 )主の許に、41節 「するとそこに」と飛び込んで来て、「ひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願っ」て受け入れられ、主は彼の家に向かっておられるところだったからである。
ところが、何と !! 先にお願いしていたにも拘らず、後回しになるという事態が起きたのだ。実に、この〈 長血をわずらう女の割り込み 〉というハプニングである。
主は、45節 「わたしにさわったのは、だれですか」、46節 「しかし、イエスは、『 だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから 』 と言われた」と、彼女を懇( ねんご )ろに扱っておられるではありませんか !!
会堂管理者ヤイロにとって、一刻の猶予も許されない願いであっただけに、いても立ってもいられない心境が想像出来る。
そうこうしている内に、ヤイロの思い煩いは現実となり、彼が最も恐れていた悲報を聞く羽目になった。それが、49節 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。『 あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。 』 」という伝言である。
その時の、50節 「これを聞いて、イエスは答えられた。『 恐れないで、ただ信じなさい・・・ 』 」に学びたい。

@ 「恐れないで」とは ?

詳訳では、「驚きに捕えられては【恐怖に打ちのめされては】いけない」である。実際ヤイロは恐れた。娘が死んだと聞かされた時、ヤイロの心が穏やかである筈がない。その上、「もう、先生を煩わすことはありません」とまで言われてしまう始末。
主が「恐れないで」と言われたのは、そのような事態で〈 驚き、恐怖 〉を抱くことがあっても、その虜にならないようにとの忠告である。
エペソ人への手紙 4章26、27節 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないように」に通じる。悪しき感情に縛られる時、悪魔の介入によって、そこから抜け出られなくされる可能性と危険性があるから。

A 「恐れないで」いる為には ?

「ただ信じなさい」と仰るお方への信頼を、マルコの福音書 5章36節 ※ 「信じ続けなさい」と、初め同様持続させること。
何故なら、主が「これを聞」かれたのは、49節 「イエスがまだ話しておられるときに」であり、主は〈 長血のわずらいから解かれた女 〉と言葉を交わしておられた間も、ヤイロの祈りを忘れてしまってはおられないのだから。主は、彼女と真剣な話をしておられるその間中、気が気ではないであろうヤイロの心情を把握しておられた。
ヤイロの主への信頼は、闇雲にというのではない。ヤイロが「家に来ていただきたい」と懇願した時、受理された主を信頼したのだから。
その初め、主が娘の癒しを約束されたことばはないが、ヤイロの「家に来て」頂けさえすればと信じてのスタートだった。主を信じるとは、〈 いつ ? どの様に ? 結果は ? 〉の注文なしで、主のご真実を信頼してお任せすること。
ヤイロの信仰は試されたが、ラザロへの遅延が、「愛しておられた」故だったことから鑑みても、信じるのみ( ヨハネの福音書 11章5、6節 )。人々から、娘が亡くなったのだから、「先生を煩わすことはありません」と言われた時、ヤイロはどうすべきだったのだろう ? 主に期待した信仰の持続である。
使いの者は、娘の死にこだわり、もう、結構ですと、主が出掛けられた意図の最後を見ようとはしなかった。
そのような事態を迎えても、主を信頼する信仰は、尚主を期待するのだ。主の為さることに委ねるのが信仰だから。

B 「恐れないで」いる結果は ?

主は、50節b 「そうすれば、娘は直ります。」と宣言されたように、実際的癒しだった。主が、52節 「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と仰った時、娘の死を否定されたのではない。死んでいるが起き上がると宣言された。死から甦らせる復活の主であることを証する為に、この出来事を用いられた。ラザロの許に行くのを遅らせたのも、彼を復活の証人とするためであったのに同様。
結果を全て、主の栄光の為に考えておられる。

※ いつでも聖父を信頼された主に倣って信じる信仰を !!

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2017年10月14日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 38


ルカの福音書8章40節〜48節

先週は、主が ※ 26節 「・・・ゲラサ人の地方」で ※ 27節 「悪霊につかれている男」を救いに導かれた出来事に注目した。

@ 主は「男」を救われるのに、どのように扱われたのか ?
この男は ※ 27節 「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住」み、29節c 「鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた」。主は、彼の生活の惨状そのものにではなく、彼をしてそのようにさせている究極的原因に目をつけ、その一点に触れられた。

A 主が「男」から悪霊を追放した結果 ?
a. 何と男は !! 35節c 「正気に返」り、38節 「お供をしたい」と願う人と変えられた ⇒ コリント人への手紙 第二 5章13〜15節。
b. 34節 「( 豚を )飼っていた者たち」、この出来事を知らされた ※ 35節 「人々」、36節 「目撃者たち」、総称して ※ 37節 「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」という拒絶。
何故 ? 気の毒な狂人が救われて「正気に返」るよりも、自分たちの平穏無事を願ったからだ。
主を、自分たちの生活を脅かす者でしかなく、悪霊からの解放を与える救い主とは考えなかった、求めなかったからだ。何と !! 悲しいことだが、これがこの世の現実。

※ 37節c 「そこで」と主は、退ける所には留まらず、救われた男を家に帰らせて証人として留まらせ、彼にその町の宣教を委ねられた。彼は直ちに39節 「出て行って・・・町中に言い広めた」と、ここに宣教の基本的理念があると。


今朝は、悪霊を追放して癒された男を残し、その後直ちに宣教の拠点カぺナウムに ※ 40節 「帰られ」た主が、主の帰りを待ちわびていた群衆に対応された二つの出来事の中の ※ 43節 「十二年の間長血をわずらっていた女」の癒しに学びたい。
今一つの出来事は 《 ヤイロの娘の癒し 》 で、来週学びますが、主が会堂管理者ヤイロの切なる願いに応じて ※ 42節 「お出かけにな」った時、みもとに押し迫って来た群衆の中の一人、必死に主を求めて来たのが、今朝学ぶ「長血をわずらった女」。
彼女は何と、素晴らしい経験に与ることになる !!
44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」と。その上、48節 「イエスは彼女に言われた。『 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。 』 」と、主から今後の保証まで頂いて、全く新しい生涯に導かれた。

主が評価された 《 彼女の信仰 》 とは ?

@ 44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」という、遠慮と勇気ある信仰。

テモテへの手紙 第二 1章7節には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」とあるように、極めて均衡のとれた信仰の姿勢である。
彼女の「長血」という病気は、彼女が座るすべての物が汚れた物とされ、その汚れた物に触れただけでも皆汚れ、触れたその人は「衣服を洗い、水を浴びる」必要があった。
律法では、明らかに慎まなければならない。しかし、彼女には信仰があった。その信仰とは ? 律法の心を知る信仰、即ち、律法の中心は愛であること。
それを、主が ※ 45節、「わたしにさわったのは、だれですか」 《 多くの人々が押し合いへし合いする中、他の人とは違った触り方をした人がいる 》 と言われた、そのお心で知る。
その時の人々の反応は、45節b 「みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『 先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです 』 」と、誰かと尋ねられても、特定の人をあげることは出来そうにもありません、だった。
この時人々は、そのように尋ねられる主に特別な雰囲気を感じたようだ。実際、群衆が互いに押し合うようにしてついて行っているのだから、私です・・・と、何人もの人々が言っても良いところ。にも拘らず、「みな自分ではないと言った」には、私だと言えば、何か不利になるのではないかと警戒した様子が感じられないだろうか。しかし人々の警戒心は邪推に過ぎず、主は真剣な眼差しと感動をもって触れた人を捜され、出会いたく願ってくださったのだ。
ご自身では、誰が触ったのか知っておられたが、直接出て来させて、会いたいと願ってくださったのだ。律法の心が何であるかを知って、即ち、主とはどのようなお方であるかを知って近づいて来る信仰を喜ばれたのだ。
もし咎められるのであれば正して頂こう、しかし「 『 お着物にさわることでもできれば、きっと直る 』 と考えていたから・・・ マルコの福音書 5章28節」という近づき方。

A 47節 「女は、隠しきれないと知って【詳訳: 気づかれないでは済まないのを見て】、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」潔い、謙りの信仰。

彼女は、主のその声を退けて、そっと帰って行く選択肢もあったが、帰るわけにはいかないとする信仰があった。
これこそ、彼女が純粋な動機をもって近づいた証である。
彼女をして「隠しきれないと知って」と思わせたのは、必死な信仰に応えてくださった主への無礼は許されないとの思いからである。「震えながら進み出て」とある限り、自分への人目を恐れつつも、恥と屈辱とは当然とする信仰。
主は、単なる病からの癒しを与えることを以って良しとされるお方ではない。究極は、あくまでも魂の救いであり、その確かさにある。その為に、敢えて彼女を御前に引き出されたのだ。しかも、そこに居合わせた全ての人がそれと分かる所に出させたのだ。「真実を余すところなく打ち明けた。 マルコの福音書 5章33節」彼女が「主にさわったわけ」を明らかにすることによって、彼女に肉体の癒しに勝る信仰の承認を得させ、群衆たちにも、信仰の何なるかを明確にされた。

※ 少なからず群衆たちは、主が一言、46節 「だれかが・・・」と言われて怖じ気付いてしまい、正直に出ようとする者は誰一人いなかった。何をどう言われるのかが心配だからであるが、いつでも体裁を繕う者には霊的祝福は皆無。いつでも正直に主の御前に出る、主へのひた向きな信仰で出る者でありたい !!

posted by luckyfachan at 23:15| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする