2017年09月30日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 36


ルカの福音書8章22節〜25節

先週は、 《 種蒔きのたとえ話 》 での「みことばを聞く」態度に関連して、16節 「あかりをつけ」る人としてご自身を現された主が、みことばであるその「あかり」を明らかにしたように、弟子たちも又、同様に、と指導された点に注目。

@ 16節 「それを器で隠したり、寝台の下に置」かない生活。
「隠」すとは、自分の為にだけ「あかり」の恵みを保つ姿で、その「あかり」による喜びが侵害されたくない、関わりによって被る煩( わずら )わしさから逃れ、自らの身の安全のみを考える。
「寝台の下に置」くことについて、ある人は、「寝台」とは〈 休息、安楽、怠惰、放縦 〉の意と言っている。みことばに生きる時の摩擦を嫌い、妥協策を取り、従うことに躊躇して、主の光を放つ機会を失わせる生活態度。

A この勧告を無視したりと、主から聞いているみことばに対する怠惰さには、必ずその刈り取りがあること。
a. 17節 ⇒ 「器で隠したり、寝台の下に置いたり」の生活の実態は必ず明るみにされる。信仰生活に覇気が無くなり、霊的喜びが無くなることは、遅かれ早かれ明らかになると。
b. 18節 ⇒ みことばを魂への重荷から真実に伝えるなら、その人は、みことばから新たな啓示を得るが、自分だけのものにしている人は、みことばの真理が分からなくなる。

B 21節 「神のことばを聞いて行う人」となることによって作られる主との霊的関係こそが、生まれながらの血縁関係よりも名誉なことなのだと諭された。

※ 18節 「聞き方に注意しなさい」と仰る主のお心を粗末にする軽はずみな生活態度には十分注意したい、と。


今朝は、主が、弟子たちと共に ※ 26節 「ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に」向かわれる途中、ガリラヤ湖上で突風に見舞われた時に、24節 「私たちはおぼれて死にそうです」と慌てた弟子たちの信仰を正された記事に注目したい。
弟子たちを正された時の主のおことばは、25節 詳訳 「なぜ、そんなにこわがるのか。わたしの真実と誠実に対するあなたがたの信頼、確信は、どこにあるのか」だった。
23節 「突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」が、もしお互いも又、24節 「彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『 先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです 』 」と叫んでいる自らに気付いたならば、先ず吟味すべきは、《 あなたがたの信仰・主の真実と誠実に対する信頼、確信は何処にあるのか ? 》 の問い掛けに如何に応えるか、ということである。具体的に・・・

@ 22節 「湖の向こう岸へ渡ろう」という計画は、「さあ」との声掛けに従った船出だったが、行動の一つ一つが、主からの「さあ」があってのことだとの信仰はあるのか ?

もし単なる、自分たちの思い付き、勝手気ままな遊び心、好奇心によったのであれば、不安は付き物。しかし、主に従った上でのことだと確信できれば、怖がる必要はない。
使徒の働き 5章38b、39節 「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう」は真理であり、この何れかが鍵。
恐れなき信仰生活の秘訣は、「さあ」との御声に聞き従った上での今日なのかどうかにある !!
私たちは主の声を聞いてから行動しているだろうか ?
使徒の働き 16章6〜10節、6節 「聖霊によって禁じられたので」、7節 「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」、10節 「神が私たちを招いて、・・・させるのだ、と確信した」との内的確信に基づいての行動。一行が6節で、「ガラテヤの地方を通った」とある記事について触れたことがあるが、ガラテヤ人への手紙 4章13節 「私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした」とあるように、健康的課題が生じた為に、予定コースの変更があったようだ。
主が御心を行われるのに、あらゆる事態を御手に収め、「さあ」と導かれる。パウロのこの「確信したから」との霊的経験こそ、前途に何があろうと恐れ無しとする鍵 !!

A 主からの、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従って行く先々で、必ずしも順境とは限らず、むしろ、弟子たちに立ちはだかった「突風」のように逆境に遭遇するとの信仰は ?

主は、ヨハネの福音書 15章18〜21節 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。・・・しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います」と言われた。
主が、24節 「そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし」と、突風によって舟が沈没しそうになっているにも拘らず熟睡しておられたのは、その信仰的理解の故である。
使徒たちには、その信仰があった。ペテロの手紙 第一 4章12、13節 「・・・燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」、ピリピ人への手紙 1章29節 詳訳 「・・・キリストのための苦しみをも受ける【という特権を】も与えられている」と。

B 25節 「・・・弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『 風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。 』 」には、彼らが共におられる主を知らないことが意味されているが、主を知る信仰は ?

これまで弟子たちは、主の救い主としての徴( しるし )を何度も、又、様々な形で見て来ている !! にも拘らず、「お命じになれば従うとは、いったいこの方は・・・」と、驚く様こそ驚き !!
何故、そうなのか ? ヨハネの福音書 6章26節 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」にある。徴は救い主としての証であるが、彼らの関心は、地上的な必要の満たしにあるだけで、天的・霊的関心が希薄だから。
弟子たちでさえ然り。もし私たちにおいても、もし地上的な事柄に縛られ、身も心もその問題からの解放のみを求めて明け暮れしているならば、主を知るという霊的関心を抱く生活には至らない。ヨハネの福音書 17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」にあると覚えたい。

※ 果たして私の信仰は ? 23節で眠っておられた主の安息にあやかりたい。

posted by luckyfachan at 21:36| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 35


ルカの福音書8章16節〜21節

先週は、4節 《 種蒔きのたとえ話 》 から、「種は神のことばです」、種が蒔かれた四つの土地( 12〜15節 )は、神のみとばを聞く聞き手の心、種の生長と結実の有無は、それら土地の状態如何で決まると学んだ。それは「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く・・・ へブル人への手紙 4章12節」とあるからであり、このたとえ話の目的は、この一点にあると。
主は、※ 15節 詳訳 「良い地―みことばを聞いたなら、正しい〈 気高い、潔い、立派な 〉心、これをしっかりと保ち、忍耐をもって、着実に実を結ばせる者」を期待しておられる。

@ 12節 「聞いたが」と、みことばを一向に受け付けない頑( かたく )なさと、心の問題に無頓着である姿勢とは対極にある。

A 13節 「聞いたときには喜んでみことばを受け入れる」が、「根がない」とは、霊的に扱われることが皆無で、みことばによる、主との霊的・生命的関係がない状態、「試練のときになると、身を引いて」、6節 「水分がなかったので、枯れてしまった」という惨めさとは対極にある。

B 14節 「聞きはしたが、とかく( あれやこれや )しているうちに」と、聖霊による明確な指示が与えられながらも、優柔不断な時間を過ごしてしまう態度のこと。その隙に、詳訳 「生活の心配や富や、快楽に押さえつけられ【息の根を止められて】、実の熟さない〈 成熟しない、完成しない 〉者たちのことである」という、これも対極にある。

※ 「良い地」の特色は、潔さ 《 聖霊の声に瞬時、従う心 》 と、従うことに伴う忍耐に生きることにある。みことばによって扱われる道を選択しては明け渡す日々に心したい、と。


今朝は、先週学んだ 《 種蒔きのたとえ話 》 での「みことばを聞く」態度に関連して、18節 「だから、聞き方に注意しなさい」、21節 「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」と、聞いたみことばをどのように扱うかについて指導しておられる点に注目したい。
その指導とは ?
種蒔きのたとえ話の「種を蒔く人」は主ご自身だった。
16節では、「あかりをつけ」る人として、ご自身を表しておられるが、主は、「あかり」である神の国の教えを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」せず、「燭台の上に置」いて、「はいって来る人々に、その光が見える」ようにと、真理を、群衆たちや弟子たちに明らかにしていると言われた。
指導とは、ここである。即ち、主が真理を明らかにしたように、今度は弟子たちも又、同様にするようにとの勧めである。
この聖句の並行記事である ※ マタイの福音書 5章15、16節を見ると明白。「・・・このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」である。
この「人々の前で輝かせ」というのが、既に、ルカでも触れたが、ここ 『 マタイの福音書 』 では、「枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます」とあるように 《 聞いたみことばを隠してはならない 》 という忠告である。続く、「あなたがたの良い行い」とは、マタイの福音書 5章43〜48節がその解説であるが、48節 「天の父が完全なように、完全でありなさい」とある、44節 「自分の敵を愛」する愛の動機をもっての生活のこと。

ルカに戻って、具体的に考えたい !!

@ 16節、「それを器で隠したり、寝台の下に置いたり」しない生活とは ?

この「隠」すとは、自分の為にだけその「あかり」の恵みを保っておこうとする姿を表している。自分の内に灯( とも )された灯し火が、外からの圧力によって吹き消されることがないようにとの気遣いのみに終始する態度。自らの内に灯された灯し火によって喜ぶ喜びが侵害されたくない、関わることによって被ることになる煩( わずら )わしさから逃れたい、自らの身の安全のみを考える。隣人に 《 この灯し火、恵みを 》 との関心もなければ、重荷もない、極めて自分本位の生き方、消極的な生活態度のこと。
又、「寝台の下に置」くことについて、ある人は、「寝台」とは、休息、安楽、怠惰、放縦のことであると言っているが、このことからも、同様の事が言える。みことばは、罪人の肉的な価値観とは相反する性質である為、みことばを一たび伝えようものならば、何らかの抵抗が生じる。その摩擦を嫌い、妥協して調和を取ろうとし、従うことに躊躇したりして、主の光を放つ機会を失わせる生活態度。

A この勧告を無視したりと、主から聞いているみことばに対する怠惰さには、必ずその刈り取りがあること。

a. 17節 「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません」との事実に注意すべきこと。
即ち、人間的な何らかの妥協・怠惰によって、みことばを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」していると、その生活の実態は、必ず明るみに出されると。どのような形で ? 信仰生活に覇気が無くなり、霊的喜びが無くなることは、遅かれ早かれ明らかになると。
b. 18節 「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる」こと。 
何と厳粛なことでしょう。
即ち、みことばを魂への重荷をもって真実に伝えるなら、その人は、みことばに新たな啓示が与えられ、より深く真理に目覚め、分かるようにされて行く。しかし、自分だけのものにしている人は、みことばの真理が分からなくなる。
これらの勧めは、マルコの福音書 8章35節 「それを失い、・・・それを救うのです」と、聖書に生きる者の原則的な法則である。

B 主ご自身と持つべき生命的関係は、血縁関係にではなく、21節 「神のことばを聞いて行う人たち」にあること。

主が母マリヤを退けておられる訳ではない。ある意味で、群衆同様、母マリヤにも、霊的関係こそが生まれながらの関係よりも名誉なことなのだと諭す機会とされたのでは ?
恐らく、主の人望が厚くなるにつれて、肉親関係を羨( うらや )む人々が出て来ることを洞察されてのことかも知れない。

※ 18節 「聞き方に注意しなさい」と仰る主のお心を粗末にする軽はずみな生活態度には、十分注意したい。

posted by luckyfachan at 22:49| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 34


ルカの福音書8章4節〜15節

先週は、2、3節 「自分の財産をもって」主に仕えた「マグダラのマリヤ」に注目し、先ず、彼女が登場する場面を見た。
マグダラは、主の宣教拠点・カぺナウムから約5キロの距離の町であることから、彼女は主の初期の働きの実だったと考えられる。ここ8章で突如姿を現し、その後は、主の地上最後の出来事での重要な役割を担うことで存在感を現しているのを見た。十字架上の主の最期を目撃し、み体の取り降ろしから埋葬までを見守り、日曜日には真っ先に墓を訪ね、墓が空になったことを見、ペテロとヨハネに伝え、復活の主の顕現に与り、ペンテコステの祈りの場に、と。
そのマグダラのマリヤをして、主に仕えさせた理由は、何と言っても、2節 「七つの悪霊を追い出していただいた」霊的経験の明確さにある。悪霊に憑かれた状態を知るには、8章26〜30節の〈 長い間着物も着けず、墓場を住まいとし、汚れた霊に振り回されていた 〉御し難い獣同然の生活振りから推測できる。実に彼女はレギオンほどではなかったとしても、女性として、七つの悪霊による苦悩は尋常ではなかった筈。
それ故、その狂気沙汰からの解放は、彼女をして、最早、主に生涯を捧げる以外の生き方は考えられないとさせた。その生涯の為にはと、11章24〜26節 《 悪霊の出て来た所に戻ろうとする性質 》 に警戒し、救い後の生活に注意深かった。
日々、主から離れる隙を作らないようにと、主から来るものをもって自らの心を占領させ、空っぽ状態に警戒した。

※ 聖書が、主に仕えた多くの女性の中でもマリヤに目を向けさせているのは、彼女の注意深い霊の営みにあったと自戒した。


今朝は、主が ※ 4節 「大ぜいの人の群れ」に話された 《 種蒔きのたとえ話 》 を、一緒に聞いていた弟子たちが、9節 「どんな意味かをイエスに尋ねた」とある、その時の主の ※ 11節 「このたとえの意味はこうです」と始められた解説に学びたい。
先ず、「種は神のことばです」とある。又、その種が、12節 「道ばたに落ちるとは」、13節 「岩の上に落ちるとは」、14節 「いばらの中に落ちるとは」、15節 「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです」と。蒔かれた土地は、神のみことばを聞く、聞き手の心のことであり、種の生長と結実の如何は、それら土地の状態次第で決まるということである。
何故でしょう ?
 へブル人への手紙 4章12節 詳訳 「神の語られるみことばは生きていて、〈 みことばを働かせ、動かし、活動力を与え、有効にする 〉力に満ちており、もろ刃の剣よりも鋭く、いのちの息【魂】と不滅の【霊】、又関節と骨髄【即ち、私たち人間性の最奥部】の分かれ目に至るまで刺し通し、心の思いと意図までも露わにする〈 ふるいに掛ける〈 分析する〈 裁く 〉からです 〉」。 
『 至聖所 アンドリュー・マーレー著 』  神の御言の第一の働きは、傷付け、切り、又割くことである。魂は自然の生命がその座をもち、霊は霊的神的生命がその座をもつ。罪は混乱不規則を来した。そして、霊が自然生命なる魂の支配下に入った。けれども神の言はこれを分割し離し、霊を覚醒してその見えざる永久的なることの機能としての運命を自覚せしめ、魂をして自ら罪の能力の下に虜となっていることを知らしめる。御言は深く又間違いなく切開し罪の深い腐敗を発見する―。

神のみことばが持つ力を知る時、最早、私たちは結実がないという事で嘆き悲しむのではなく、神のみことばをどの様な心で聞くのか、心の態度に留意すべきと自戒したい。
このたとえ話の目的は、この一点にある。
ですから、8節 詳訳 「イエスは 『 聞く耳を持つ者は耳を傾けなさい【聞いて悟りなさい】 』 と叫ばれた」とあり、この「叫ばれた」とは、大声で叫ぶの意で、この命令に聞くことへの厳しさ・厳粛さが込められていると学ぶ言葉である。
その上で主は、9節で「どんな意味」ですかと聞いて来た弟子たちの姿勢に安堵されたが、何故たとえ話をするのかの説明を加えて、 “ 他の者は見ていても見えず、聞いても悟らないから ” と。即ち、聞いてみようとの関心をそそる為にと。

さて、主はどのような心で聞くことを期待されたのか ?
15節の「良い地」の状態であり、詳訳 「みことばを聞いたなら、正しい〈 気高い、潔い、立派な 〉心、これをしっかりと保ち、忍耐をもって、着実に実を結ばせる者たちのことである」とある。
この「良い地」の心の状態とは、具体的にどのような霊的在り方で生活する人なのか ? 他の三つの土地が何故、実を結ぶに至らなかったのか、それらの問題点の是正が鍵となる !!

@ 12節 「聞いたが」の問題点 :

「あとから悪魔が来て・・・その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまう」ことを許している。5節 「人に踏みつけられ」とは、心の中に入れてはいない状態。
みことばを一向に受け付けない頑( かたく )なさの象徴。異教だから ? 非合理的 ? 非現実的 ? 科学的ではないから ? と理屈をこねる。心の問題に無頓着である姿勢、「良い地」とは対極にある。

A 13節 「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが」の問題点 :

「根がない」という霊的生活が上っ面でしかなく、いわゆる霊的に扱われることが皆無。それは聖書との関係がその場限り、その場しのぎで、主との霊的・生命的関係がない、主に根が降ろされていない。自分の都合だけで生きる為、「試練のときになると、身を引いて」、6節 「水分がなかったので、枯れてしまった」という惨めさ。これも「良い地」の対極にある。

B 14節 「聞きはしたが」の問題 :

「とかく( あれやこれや )しているうちに」とは、みことばを通して迫る聖霊の導きに与り、又、為すべきことが何であるのか明確な指示が与えられながらも、優柔不断な時間を過ごしてしまう態度のこと。その隙に、詳訳 「生活の心配や富や、快楽に押さえつけられ 【息の根を止められて】、実の熟さない〈 成熟しない、完成しない 〉者たちのことである」という、これも対極にある。

※ 「良い地」の特色は、潔さ 《 聖霊の声に、瞬時従う心 》 と、従うことに伴う忍耐に生きることにある。みことばによって扱われる道を選択しつつ、明け渡しの日々に心したい。

posted by luckyfachan at 20:36| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする