2017年08月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 32


ルカの福音書7章36節〜50節

先週は、主が34節で、「食いしんぼうの大酒飲み」と中誹謗するパリサイ人に一言、35節 詳訳 「しかし、知恵はそのすべての子どもたちによって【即ち、その生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが】証明される」と語られた所から、主が如何なるお方であるかを学んだ。

@ 「知恵」である主はご自身への非難がどうであれ、彼らの口を封じようともせず極めて冷静に対応されるお方。
唯、「子どもたちが証する」とだけ語られた姿勢に、誰をも立ち入らせない聖父との深い交わりによる強さを見た !!

A 「知恵」である主は、【神の子たちの生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが証明される】と言い切る程、彼らを極みまで信じ期待されるお方。
ヨセフの生活態度から、その解説を試みた。創世記 39章7〜10節 「※ 9 ・・・どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」に顕著。ポティファルの妻から性的な誘惑を受けた時、青年ヨセフのきっぱりと拒絶した姿勢は「神の正しさ」の証であった。
誘惑に満ちた現代社会において、世が自らの価値観をもって神をどう非難しようと、神の子が神の価値観をもって生き抜くと期待し、信任しておられる。

B 「知恵」である主は、ご自身が成し遂げる十字架による贖いの力を確信しておられるお方。
パウロをして、ピリピ人への手紙 3章7〜9節で主を誇らせた。
何故なら、へブル人への手紙 9章14節 「その血は・・・」だから。

※ 主のこの期待を裏切らない神の子としての日々を、と。


今朝は、主があるパリサイ人の招きを受けて、食卓に着かれた時のこと、それと知った ※ 37、38節 「ひとりの罪深い女」が、「香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛で拭い、御足に口づけして、香油を塗った」という場面から、主の語られた ※ 50節のおことばに学びたい。
このおことばは、この家の主人シモンが ※ 39節 「この女は罪深い者」と蔑視した女性への主の宣言である。
シモンは、主を客として招いたのではあるが、動機はどこにあったのだろうか ? 決して好意的なものではなかった。
それを先ず、見ておきたい。
44〜46節 「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来た時、あなたは・・・してくれなかったが、この女は・・・してくれました」と、主は三つのシモンがしなかったこと、女がしたことを明確にされたが、その内容から一目瞭然なのだ。
シモンの行為を見てみたい。
@. 44節で、足を洗う水を提供しなかったこと。客を招いた主人が足を洗う水を出さないということは、客に対する意図的な侮辱と見做され、無礼である。A. 45節で、当然の挨拶としての敬意を表する口づけをしなかったこと。歓迎していない者には出来ない。B. 46節の油を塗るという好意については、主が「わたしの頭に【詳訳: 安い、普通の】油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に【詳訳: 高価な、珍重な】香油を塗ってくれた」と言われたことから、シモンが如何に主を歓迎してはいないかが分かる。

従って、明らかに不純な動機からであり、39節 「この方がもし預言者なら・・・」と、唯、主を観察したいが為の招待。ある注解書によれば、ギリシヤ語では「この人間」との意で、しばしばイエスに敵対して、「こいつ」と言って使う侮辱的用語だと。
ところが、主は何と !! 36節 「いっしょに食事をしたい」とあたかも善意を装うパリサイ人の優越感が漂う社交の場で、堂々とシモンの惨めな正体を暴き、同席者を正されたのだ。
主は、彼女を侮蔑の眼差しで見下しているシモンと ※ 49節 「いっしょに食卓にいた人たち」の目の前で彼女を高くし、信仰とは何なのか ? を明らかに証されたのだ。
詩篇 109篇31節 「主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われる」、113篇5〜8節 「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ・・・」と。

主が評価された、50節 「・・・あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われる「あなたの信仰」とは、どのような信仰なのかを学んで Message としたい。
主は、たとえ話 ※ 41、42節を語り、最後に「・・・では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」とシモンに質問された。その時シモンは、43節 「よけいに赦してもらったほうだと思います」と正解を出した。
主は、43節b 「あなたの判断は当たっています」と言われたが、残念ながら、主はその正解で喜ばず、彼を正す為、直ちに、44節 詳訳 「それから女の方を振り向いて、シモンに言われた。『 この女をご覧 』 」と、信仰の何なるかを諭された。

具体的に、女の信仰とは ? 47節、「この女の多くの罪は赦されています」と主が仰たおことばで説明される。
赦しは、どのような時に与えられるのでしょうか ?
エレミヤ書 36章3節 「・・・わざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」とあるが、何という恵み深いお心の吐露でしょうか !!
彼女は罪の自覚に導かれて神に立ち返った。悔い改めて 《 神なき生活から、神ありとする生活に方向転換 》 したのだ。
その罪の自覚が上っ面のものではなく、「多くの」とは、犯した罪の量的な多さの自覚も然ることながら、罪の本質的悪のおぞましさに怯えた、その程度の大きさを示している。
そうした信仰は、必ず、47節b 「彼女はよけい愛した」という生活態度に、当然、遅かれ早かれ顕( あらわ )される。
パウロの信仰告白が、その典型 ⇒ コリント人への手紙 第二 5章16節 「かつては・・・、今は」、ガラテヤ人への手紙 1章10節 「もし私が今なお・・・なら、私はキリストのしもべとは言えません」、23節 「以前・・・した者が、今は」という明確な転換を見るもの。
7章47節c 「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」でも明らかなように、罪の自覚の程度【多いのか少ないのか】如何によって、主への愛の程度が決まる。
その人の賜物の問題でもなく、人間的力量にもよらない。

※ 「女」は、主を招いた筈のシモンが歓迎せずにいる暗い雰囲気を破って愛の行為に出た。彼女の真の信仰に倣いたい。

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2017年08月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 31


ルカの福音書7章29節〜35節

先週は、ペンテコステを記念して、28節b’ 「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」から 《 神の国と聖霊との関係 》 について考えさせて頂いた。

@ 「神の国」とは ?
神の統治する国であり、神の完全なご性質によって支配される完全に祝福された国である( 黙示録 21章1〜8節 )。
主のご奉仕は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」の宣言に始まり、ルカの福音書 4章43節 「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」と、「神の国」が念頭にあってのこと。
聖霊によってマリヤの胎に宿り、洗礼時に聖霊の注ぎに与り、聖霊に導かれて試みられた主は、マタイの福音書12章28節 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と、神の国は聖霊によって既に始まっていると明言された。

A 「神の国で一番小さい者」とは ?
ローマ人への手紙 8章14、15節と、聖霊によって 《 父と子との関係 》 に導かれた者のこと。福音書の記者ヨハネがパトモス島で、「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者・・・ 黙示録 1章9節」と言うように、お互いも既に、聖霊によって与っている。

B 但し、既に与っている「神の国」の特権も、その維持のためには、個人的な不断の自覚が必要なのだ。

※ ペテロの手紙 第二 1章10〜16節 「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい・・・」に心して聞くべきと、聖餐式に臨んだ。


今朝は、7章35節 詳訳 「しかし、知恵はそのすべての子どもたちによって【即ち、その生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが】証明される」という、素通りするわけにはいかない主のおことばに踏みとどまって考えたい。
このおことばはどのような背景で仰ったのでしょうか。
29、30節 「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」である。即ち、パリサイ人たちによって、本来バプテスマのヨハネの宣教によって認められるべき 《 神の正しさ 》 が否定され、神ご自身が拒まれたことに。
その姿は、正に、 詳訳 31、32節の光景で、文句を言っている子どもに同じだと言われた。「だから、この時代の人々を何にたとえようか。彼らは何に似ているか。それは、子どもたちが市場に座って、互いに呼び掛け、『 私たちは【嫁入り遊びで】笛を吹いたのに、あなたがたは踊ってくれなかった。私たちは【葬式遊びで】弔いの歌を歌った〈 泣きわめいた 〉のに、あなたがたは泣いてくれなかった 』 と言うのに似ている」と。
具体的には、33節 「というわけは・・・」と、バプテスマのヨハネに対して「・・・ 『 あれは悪霊につかれている 』 とあなたがたは言うし」、主に対しては、「・・・ 『 あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ 』 と言うのです」と。
何れにせよ、勝手気ままなパリサイ人にとっては、バプテスマのヨハネの存在も、主の存在も喜びとはならずに敵意のみ。
こうした非難を浴びる中で語られた ※ 35節のおことばから、主が如何なるお方であるかを学びたい !!

@ 「知恵」である主はご自身への非難がどれ程のものであれ、極めて冷静に対応されるお方。

主に浴びせられた ※ 34節の「食いしんぼうの大酒飲み」は、極めて俗っぽくて下品。実際、取税人たちの食事の席には、お酒があったからなのでしょう。しかし、主が、ご自身の為に嗜( たしな )んだとは考えられない。主が交わりの場を好まれたのは、集まる人々の救いの為であって、ローマ人への手紙 15章1〜3節 「・・・キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『 あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった 』 と書いてあるとおりです」の聖句で十分。あくまでも主は、彼らの誹謗中傷する口を封じようともせずに、唯、「子どもたちが証する」とだけ語られた姿勢に、誰をも立ち入らせない聖父との深い交わりによる強さを見るではないか !!
何と羨( うらや )ましい関係が、そこにはあることでしょう !!

A 「知恵」である主は、【神の子たちの生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが証明される】ということを極みまで信じて期待されるお方。

神は畏れられるべきお方で侮られるべきお方ではないこと、額面通りお従いすべきお方であることを、子どもたちがその生活振りで証明するという期待。
ヨセフの生活態度から、その解説を試みたい。
創世記 39章7〜10節 「※9 ・・・どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」に顕著。ポティファルという主人の妻から性的な誘惑を受けた時、きっぱりと拒絶した17歳のヨセフは、「姦淫してはならない。 出エジプト記 20章14節」と仰る神の正しさを証した。神は、ヨセフによって証されたのだ。
誘惑に満ちた現代社会において、世が自らの価値観をもって神の子たちに何をどのように言って来ようと、神の価値観をもって生き抜くことを期待し、信任しておられる。

B 「知恵」である主は、ご自身が成し遂げられる十字架による贖いの力を確信しておられるお方。

パウロをして、ピリピ人への手紙 3章7〜9節 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています・・・」と言わせる贖いの優越性を、主は確信しておられる。
又、ガラテヤ人への手紙 6章14節 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・」と、パウロをして言わせる福音を。
何故なら、へブル人への手紙 9章14節 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は・・・」だから。

※ 主のこの期待を裏切らない神の子としての日々を !!

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2017年08月15日

ペンテコステ記念礼拝 『ルカの福音書』 より 30


ルカの福音書7章24節〜35節

先週は、獄中のバプテスマのヨハネからの ※ 19節 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも・・・」との主への質問に、主が ※ 23節 《 詳訳 「どんなことが起こっても、わたしに傷付けられない・腹を立てない・苛立たない・反発しない・まごつかない者は幸福である」 》 と言われた忠告に学んだ。
このおことばには、極めて穏やかな、彼を思いやる御思いが込められているが、紛れもなく、彼への厳格な忠告である。
主は彼の何をもって、「つまずいた」と見られたのだろうか ?
18、19節 「ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは・・・」と、主の働き全てを聞いて知った上で、主以外の誰かを求めたことに、である。
バプテスマのヨハネにとって、投獄そのものに異議はなかった筈。
唯、主のしておられることには、自分の奉仕の動機としていた危機感がないと感じたからである。主のなさることに納得がいかず、主に躓いた。「つまずく」の動詞は【憤慨する】である。その意味は、足をすくう( 良くない考えを宿す )、罠にかけるで、いつも「罪を犯させる」という時に使われていると学んでいる。私たちも又、この一事に警戒したい。
主に対し “ 何をなさるのですか ? いつまでですか ? 何故ですか ? ” と、憤慨し非難したくなる思いに陥る可能性はあるが、その思いを警戒し、潔く捨てるべきである。

※ テモテへの手紙 第二 2章13節 詳訳 「たとい私たちは不真実であっても〈 彼を信ぜず、彼に誠を欠いていても 〉、彼は何処までも〈 彼のみことばと彼の正しいご性質に 〉誠実。バプテスマのヨハネを厳格に戒められた主を信頼し抜くお互いでありたい、と。


今朝は、ペンテコステを記念して 《 神の国と聖霊との関係 》 について考えさせて頂きたい。
主は、バプテスマのヨハネへの伝言を託して使者を送り出した後、彼を称賛して、7章28節 「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」と仰った。
主はバプテスマのヨハネについて、24節 「風に揺れる葦( あし )」、つまり臆病者ではなく、25節 「柔らかい着物を着た人」、「きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人」ではないと断言された。
彼が荒野にいた時「神のことばが・・・下った。3章2節」とあり、マタイの福音書によれば「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 3章4節」とあったが、極端な世捨て人の意ではなく、神の指示をどれ程切望していたかの現れであり、心の分散を避け、如何に神に心が捕らえられていたかの証として既に、学んでいる。
※ 7章33節では「パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『 あれは悪霊につかれている 』 とあなたがたは言う」とあるように、禁欲的だとして非難されていた。

こうした情報からでしかバプテスマのヨハネを知ることが出来ないが、主から「・・・ひとりもいません」とされた称賛は、私たちの理解を超えていて驚くばかりである。
しかし今朝は、更に続く ※ 28節b' 詳訳 「しかし、神の国で【その民の他の者に比べて】劣る者でも【その無比の特権によって】彼より偉大である」と仰っておられるおことばこそ、先の驚きに勝る驚きではないか !!
主が「彼より偉大」だと言われているのは、主によって贖われた民( 主の救いに留まった者 )のことであるが、もし、私たちも主に留まり続けるならば、私たちのことなのだ !!

@ 「神の国」とは ?

「天の御国」、ヨハネの福音書 3章16節では「永遠のいのち」という表現でも使われているが、主の祈りに、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、神の統治する国であり、そのお方の完全なご性質【聖・愛・義・あわれみ・まこと】によって支配される完全に祝福された国である。黙示録 21章1〜8節。
マルコの福音書 1章14、15節を見ると、主のご奉仕は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」との宣言に始まり、ご自身の派遣は、ルカの福音書 4章43節 「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」との明言の如く、「神の国」が念頭にあってのこと。
「時が満ち」とは、エペソ人への手紙 1章8〜14節 「※10  時がついに満ちて」とあり、人類の贖い計画が目に見える形で成就する時が来たという画期的な宣言である。この画期的な働きの立役者は聖霊である。主は聖霊によってマリヤの胎に宿り、洗礼時に聖霊の注ぎに与り、聖霊に導かれて試みられ、極め付きは、マタイの福音書 12章28節 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と、神の国は聖霊によって 《 既に、始まっている 》 と言われている。

A 「神の国で一番小さい者」とは ?

ローマ人への手紙 8章14、15節 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥( おとしい )れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『 アバ、父 』 と呼びます」とあるように、聖霊によって 《 父と子との関係 》 に導かれた者のこと。
聖霊によって始められた主の働きの終着点・完成は、十字架の死と復活、昇天後の聖霊降臨だったからである。
ガラテヤ人への手紙 3章13、14節 「・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と。
もう既に私たちは、「神の国」に与っている。( 福音書の記者 )ヨハネもパトモス島で、「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者・・・ 黙示録 1章9節」と言っているように。

B 但し、既に与っている「神の国」の特権も、その維持のためには個人的な不断の自覚が必要。

ペテロの手紙 第二 1章10〜16節 「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい ・・・」に心して聞くべきなのだ。
ペテロは迫害下にあるキリスト者たちを、絶えず「キリストの永遠の御国」への希望に導く為に力を尽くした。

※ 聖餐式に臨む今、心を新たにしたい。

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