2017年07月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 28


ルカの福音書7章11節〜17節

先週は、主から、9節 「イスラエルの中にも見たことがありません」とま評価された 《 立派な信仰について 》 考えた。
彼の人となりには、6、7節で、主を「私の屋根の下にお入れする資格は」ないとし、自らが異邦人の身であるとの意識から、直接主の聖前に出ることを憚( はばか )った点に謙虚さを、或いは、当時のローマ兵とユダヤ人との関係が問題視される中での、4、5節に見る彼の人望の厚さから、実に品行方正で好感度の高い人物と思われる。しかし、主がこの百人隊長に一目置かれたのは、9節 「これを聞いて」という、彼の信仰の立派さだった。
7b、8節 《 神の権威に全幅的な信頼を寄せる信仰 》 である。
へブル人への手紙 11章3節 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と。
この11章は、古( いにしえ )の聖徒たちが皆、7節 「・・・神から警告を受けたとき、恐れかしこんで・・・造り・・・」、8節 「・・・出て行けとの召しを受けたとき、これに従い・・・」と、一たび神から 《 おことば 》 を受けたならば、知的にあれやこれや考えることを止め、アンドリュー・マーレーが、 “ 神の御言葉は本来、心、意志、愛情をもって受けるべきもの ” と言っているが、額面通り信じて受け入れるべきものなのだ。百人隊長は 《 唯、おことばを頂きさえすれば、私のしもべは必ず癒される 》 と、主のおことばの権威を微塵も疑わずに信じて期待したのだ。

※ 10節 「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」と、彼の信仰は報われた。主の絶対的権威を信じる信仰をもっておことばに向き合いたい、と。


今朝は、ナインと言う町で、12節 「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」に出会われた主が、その青年を死から起き上がらせた出来事に学びます。
やもめとなった母親のひとり息子の死は、主が、13節 「その母親を見てかわいそうに思い、『 泣かなくてもよい 』 」と言っておられる限り、人間的には深い同情が寄せられるべき状況にあったと考えられる。
既に夫との死別を経験し、その死別によって何を味わっていただろうか ? 今回は、たったひとりの息子との死別である。
その涙は、お互いが日常経験する様々な形での試練によって流す涙である。夫との死別によって、不利な社会的な立場、或いは、経済的な困窮状態が強いられたとも考えられる。残されたひとり息子は、14節 「青年よ」と呼ばれる年齢に達しているとすれば、多少なりとも母親を支える存在として期待されていたと考えられるが、その息子にも先立たれた母親。
主は「かわいそうに思い」と、深い同情を寄せられたのだ。
私たちはこの出来事から、如何に主が同情深く、涙する私たちに近づき、必要に応じて、それも、死の状態から起き上がらせることをすら為さるお方として知らされる。
しかしこの出来事から、この理解だけで良いのだろうか ?
主が行われた 《 死人を生き返らせた奇蹟 》 については、この出来事を含めて、福音書に三つのケースの記録がある。
他の二つは、ヤイロの娘の記事( 8章41、42、49〜56節 )と、ラザロの記事( ヨハネの福音書 11章1〜44節 )である。
何れの奇蹟も、愛する者を死から生き返らせて頂いたことによって、彼らの死を悼( いた )み悲しんだ人々は、一方ならぬ慰めを受けた。しかしこうした経験は、実は束の間のこと。
この 《 死からの生き返り 》 に与った「死」について考えるならば、へブル人への手紙 9章27節 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあり、究極は、肉体の死を見なければならないのだから。
最先端医療に関心が高まる一方、医療関係者から 《 死に備える医学 》 が必要だとする声が上がっているのは当然のこと。

この事実を踏まえつつ 《 死から生き返らせる 》 奇蹟を行われた主はどのようなお方だったのかに注目したい。

@ 主は、永遠という時間と比べたならば、地上での束の間のことでしかないからといって、母親の苦悩に無関心を装うお方ではなく、今日の必要にも細心の関心を抱き、直接関与されるお方。

主が、人の子となられたのは、へブル人への手紙 2章18節 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」為であり、4章16節 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」という招きが成立しているのだ。
しかも、何という恵みでしょうか !!
この母親は、自ら主を求めた訳でもないのに、母親を見られた主の方から近づかれたというのだから。

A しかし主は、地上的事柄にご自身を提供しつつも、人々を永遠・究極の行くべき日を意識させて関与されるお方。

主が、五つのパンと二匹の魚をもって五千人の必要を満たされた時、その翌日も又、そのパンを求めてやって来た群衆に仰ったおことばに注目すべきである。
ヨハネの福音書 6章27節 現代訳 「あなたがたは、何時もこの食物のような朽ちてしまうものにしか関心がありませんが、どうして朽ちることのない永遠のものを求める為に一生懸命やろうとしないのですか。救いという永遠のものこそ、わたしが与えるものであり、天の父はその為に、わたしをこの世にお遣わしになったのです」と。

B その上で主は、この永遠こそ現実とすべく、死からの生き返りをご自身の復活に結び付けて希望に導かれたお方。

ヨハネの福音書 11章25、26節 「イエスは言われた。『 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 』 」とは、母親のひとり息子とヤイロの娘に見た奇蹟の、頂点的奇蹟としてラザロの復活( 蘇生 )を宣言された時に語られたことばである。
地上では不遇な出来事に悩まされることがあっても、復活こそ究極の祝福だと 《 死から生き返る奇蹟 》 を起こされた。

※ 主は、試みにある聖徒に ※ へブル人への手紙 11章35節 「さらにすぐれたよみがえり」こそ現実 !! と仰がせて日々関わるお方と、感謝したい。

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2017年07月24日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 27


ルカの福音書7章1節〜10節

先週は、【ちりと梁】のたとえ話から、42節 「そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて取りのけることができるのです」と、手引きする者の在り方に光を与えて頂き、この「そうしてこそ」に学んだ。

@ 41節 「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか」と、先ず「自分の目にある梁に」気付くことから始めること。
「兄弟の目のちり」とは、ガラテヤ人への手紙 6章2節 詳訳 「お互いの重荷【煩わしい道徳上の失敗・罪過や欠点】」のことで、自分では担いきれない重すぎる重荷のこと。一たび係わるならば、発見させられる自らの内的腐敗性が「梁」なのだ。
しかも兄弟の問題が「ちり」で、私には「梁」との事実。

A 42節 「まず自分の目から梁を取りのけなさい」に従うべく謙って、十字架の血による清めに与ること。
それも、48節 「地面を深く掘り下げ」る人であること。もし、兄弟の目のちりを取り除くことに終始し、それをどの様にすれば、何と言えば・・・ということにのみ腐心することに追われる時、得てして自分自身の霊的状態が疎( おろそ )かになり、地面を深く掘り下げる霊的経験には与り得ない。

B これらの「そうしてこそ」との指導に従わないなら、42節 「偽善者」で、46節 「主よ、主よ」と呼ぶだけの者でしかない。「目のちり」を取り除けるどころか、その形を取っているとの自己満足だけで、「盲人の手引き」なのだ。

※ 42節 「兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのける・・・」者となる為、真実に扱われて役立たせて頂きたい、と。


今朝は、主から、7章9節 「イスラエルの中にも見たことがありません」とまで評価された 《 立派な信仰とは 》 を考えたい。
主が、宣教の拠点としておられたカぺナウムでのこと。
2節を見ると、「ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた」とある。そこで、その百人隊長が、3節 「イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした」ことに始まる出来事である。
百人隊長とは、百人の兵士を預かるローマ人将校で、その彼には兵士だけではなく、しもべがいた。
このしもべの為に、彼は初め、ユダヤ人の長老たちを送り、後には、6節 「友人たちを使いに出して、イエスに伝えた」とある。マタイでは、百人隊長が直接主の御許にやって来て懇願したとあるが( マタ 8・5 )、それはマタイの福音書の特色によるもの。即ち、事の成り行きの詳細を省き、その出来事を端的に伝えることを目的としていたからである。
実際、百人隊長は主と直接面会してはいないが、彼は、使者を通して主の御許に出たのだ。
何故、使者を通してだったのかについては、理由があった。
ユダヤ人の長老を送った時点では、3節 「・・・しもべを助けに来てくださるようお願いした」だった。ところが、主をお待ちしている間に “ 何と !! 畏れ多いことを ” と思い立ち、6b'〜7節で、「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました・・・」と。

彼の主への遠慮を、謙虚な姿勢として私たちは学ぶべきところがあるようにも思える。又、ユダヤ人の長老たちを遣わしたことからも、自らが異邦人の身であるとの意識から、直接主の聖前に出ることへの憚( はばか )りがあったのではと見る時、そこにも謙虚さを認めるべきかも知れない。
更にユダヤ人から、4、5節 「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。『 この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です 』 」と言われているところを見ると、彼の人望の厚さがうかがえる。
当時のローマ兵について言及されている記事―3章14節b’ 「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」―を見る時、しばしばユダヤ社会での彼らの横柄さが問題とされていた事実に比して、珍しく褒められるべき人物である。

こうして百人隊長の人となりを考えるならば、実に品行方正で好感度の高い人物ではあるが、主がこの百人隊長に一目を置かれたのは、9節 「これを聞いて」という、彼の信仰の立派さにあった。
「これを」とは、7節b 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」、8節 「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに 『 行け 』 と言えば行きますし、別の者に 『 来い 』 と言えば来ます・・・」である。

それは、《 神の権威に全幅的な信頼を寄せる信仰 》 である。
※ 8節 「私も権威の下にある者」とは、ローマ帝国の最高権威者の下にあって、その権威には従うべきものとの経験に基づきつつ、このような「私の下にも」と、権威というものがどのような力を持つものであるのかを知って、ましてや 《 主においては絶対的権威あるお方 》 との信仰である。
確かに、聖書的根拠のある信仰である。
へブル人への手紙 11章3節 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたこと【創世記 1章3節 「そのとき、神が 『 光よ。あれ 』 と仰せられた。すると光ができた」】を悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と。
この11章は、古( いにしえ )の聖徒たちが皆、7節 「・・・神から警告を受けたとき、恐れかしこんで・・・造り・・・」、8節 「・・・出て行けとの召しを受けたとき、これに従い・・・」と、一たび神から 《 おことば 》 を受けたならば、知的にあれやこれや考えることを止め、アンドリュー・マーレーが、 “ 神の御言葉は本来、心、意志、愛情をもって受けるべきもの ” と言っているが、額面通り信じて受け入れるべきものなのだ。百人隊長は 《 唯、おことばを頂きさえすれば、私のしもべは必ず癒される 》 と、主のおことばの権威を微塵も疑わずに信じて期待したのだ。

※ 10節 「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」と、彼の信仰は報われた。主の絶対的権威を信じる信仰をもっておことばに向き合いたい。

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2017年07月14日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 26


ルカの福音書6章39節〜49節

先週は、35節 「そうすれば・・・あなたがたは、いと高き方の子どもになれます」と言われたおことばに注目した。

@ 「いと高き方の子どもになれる」とは、神のご性質に与ることの意であるが、「いと高き方」について、イザヤは、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 イザヤ書 6章1節」と経験して、「聖なる」お方と伝えている。畏れ多くも、このお方にである !!

A ルカは、そのお方が、愛であると啓示している。
主が、27〜30、35〜38節 「・・・しなさい」と、命じておられる勧めの全ては 《 敵を愛する愛 》 なので、32節 「自分を愛する者を」愛する者でしかない私たちの生来の性質をもってしては実行不可能の愛、神のみが持つアガペーの愛。

B この私たちが、「いと高き方の子ども」となるには ?
a. 主が言われる一つ一つの勧めの前に、兎に角、難しいとして頭から諦め出す態度を慎むこと。
b. 実際、どの戒めのどの部分で出来ないのかについて聖霊の光を受けその正体を明白にして頂くことである。
ヨナは、アッシリヤ宣教を命じる主に抵抗して従わなかった。ヨナ書 4章1〜3節は不服従の理由であるが、ヨナには、主の愛とは相容れない肉的利己主義があった。主は、ヨナにご自身の重荷を伝えて、4〜11節 「あなたは当然のことのように怒るのか・・・」と諭し、徹底的に扱われた。
c. ガラテヤ人への手紙 5章22〜25節 「御霊の実は、愛・・・。御霊に導かれて、進もう・・・」にある霊的経験を明確にすること。

※ 高尚な生涯への招きに与るべく、信仰の歩みを、と。


今朝は、39節 「イエスはまた一つのたとえを話された。『 いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか・・・ 』 」という、一つのたとえ話をもって指導された手引きとなるべき者の心得 ⇒ 《 霊的に言って、霊の目が見えない者であってはならない。はっきり見える者でなければならない 》 について学びたい。
手引きする者の模範は何と言っても、40節が示唆している様に、「師」である主ご自身こそその第一人者である。そのお方の弟子は、訓練を受けて「自分の師ぐらいにはなる」と。即ち、師である主に等しい手引きする者となる為に、今話そうとしているたとえ話に聞きなさいというのである。
そのたとえ話とは、41、42節 《 梁とちりの話 》 であるが、この話の中心は、39節の霊的盲人であってはならないという事を受けて、42節 「そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです」にある。

この「そうしてこそ」に学びたい。

@ 41節 「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか」と、先ず「自分の目にある梁に」気付くことから始めること。

主が、42節 「自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『 兄弟。あなたの目のちりを取らせてください 』 と言えますか」と注意しておられることで分かる。
即ち、自分の目にある梁に気付かずして、兄弟の目のちりを取ってあげられる者とはならないとの明言である。

「兄弟の目のちり」とは、兄弟が抱えている問題を意味している。ガラテヤ人への手紙 6章2節 詳訳 「お互いの重荷【煩わしい道徳上の失敗・罪過や欠点】」のこと。この「重荷」と、同 5節 「自分自身の重荷」とは原語が違う。2節の「重荷」は、重いという重さを強調する言葉で、自分では担いきれない重すぎる重荷のこと。それに比して5節の「重荷」は小さく、それぞれが担うべく宛がわれている、自分の為すべき務めの意。
パウロは、2節の場合には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と、その重荷は一人でしょい込むべきではなく、互いに秘密にせずに打ち明け合いながら、祈りを共にし、主に在る交わりの中で、励まし合うべきことと勧めている。
そうすることによって、愛の律法を実践するのだと。
それを、1節の「その人を正」すという罪の問題解決だけに留めずに、生活の面での重荷全般を含めるようにと。
そして、主のたとえ話の「兄弟の目のちりを取ってあげられる者」となるというのが、パウロの言う「お互いの重荷を負い合う」者になる、に匹敵する行為である。
そして実は、係わり合うことによって、「自分の目にある梁」に気付かされる。お互いの経験するところである。
もし「互いの重荷を負い合いなさい」を無視し、キリストの律法を蔑( ないがし )ろにするならば、気付かないのが「梁」。
しかし一旦係わるならば、主が私たちに接する様には出来ないとの現実( 内的腐敗性・内的貧困 )を発見する。その動機は純粋であっても、愛することに無力という「梁」の現実。
実は、何とも恐ろしいのは、「ちりと梁」の比率である。私たちは、自らの内に〈 ある程度の 〉内的腐敗性を見つけ出したとしても、兄弟の問題が「ちり」で、私には「梁」であることに 《 逆ではないかと 》 何かしらの不満を感じるのである。しかし主は、依然として取り合わない。

A 42節 「まず自分の目から梁を取りのけなさい」に従うべきこと、謙って、十字架の血による清めに与ることである。

それも、48節で示唆されているように、「地面を深く掘り下げ」る人であること。もし、兄弟の目のちりを取り除くことにのみ終始し、それをどの様にすれば、何と言えば・・・にのみ腐心する時、得てして自分自身の霊的状態が疎( おろそ )かになり、地面を深く掘り下げる霊的経験には与り得ない。「互いの重荷を負い合う」ことによって、より主に近付かせられ、心の深みにまで血潮に与らせられるべきこと。

B もし、これらの「そうしてこそ」との指導に従わないなら、42節 「偽善者」であり、46節 「主よ、主よ」と主を呼びながらも、その実、決して、40節 「自分の師ぐらいにはなる」との恵みには与り得ないこと。

「目のちり」を取りのけるどころか、その形を取っているとの自己満足だけで、「盲人の手引き」でしかない。

※ 42節 「兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのける・・・」者となる為、真実に扱われて役立たせて頂きたい。

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