2017年06月26日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 24


ルカの福音書6章20節〜26節

先回は、主が ※ 13節 「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」記事に学んだ。

@ 何故、弟子たちを「使徒」として選ばれたのか ?
「十二使徒」選出は、公的生涯半ばにしてのこと。日を追う毎に増しに加わるジレンマの直中で、主の現時点での必要と共に、近い将来、主が天に召されて後の必要の為にである。
マルコの福音書 3章14、15節では、「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるため」と、その目的を明確にしている。

A どのようにして ?
12、13節 「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、・・・」とあり、慎重に聖父の御心を祈り求めてである。

B どのような人々を「使徒」として選出されたのか ?
使徒の働き 4章13節 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが」とある。イスカリオテのユダ( エルサレム出身と言われている )以外は、田舎者とされていたガリラヤ出身で漁師、取税人であり、人間的標準においては、見込みのない人々であった。高学歴がある訳でもない。しかし主が目を留められたところは、外的に認められる点での可能性ではなく、内的可能性にあった。

※ 主の働きが、人間的な力量でなされるものではないから、使徒の選出を祈りの内に導かれた主の姿勢に倣いたい、と。


今朝お読みした記事は、マタイの福音書 5章で親しんで来ている山上の説教と同じものであったかどうか議論されている部分ですが、同じ時のものであったのか、ないのかの問題はさておき、主が何度も「いまは、やがて、いまに」と繰り返して言われるおことばに注目しながら、三つの事を。

@ 主は、何をもって「幸いです」と言われるのか ?

20節 「貧しい者は幸いです」と。マタイの福音書では「心の貧しい者」と言っているのに対して、ルカは、経済的な意味で言っているが、どういう意味で「幸い」なのか ?
ある時主が、ある富める若き司を迎えた時のことです。
※ 18章24〜26節 「イエスは彼を見てこう言われた。『 裕福なものが神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。 』 これを聞いた人々が言った。『 それでは、だれが救われることができるでしょう。 』 」と、やり取りがあった。「それでは、だれが」と、肉は皆、経済的豊かさを祝福と見做し、神の国に入ることにおいてですら、そうだと考える傾向があったことを伝えている。
得てして、皆同様では ? 決して、「貧しい者は幸いです」と言われても・・・と。主の言われる意味は ? それは、先の富める司が、※ 18節 「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と尋ねたことで分かる。富は、彼に祝福を与えるとは限らないと。かえって人を縛り、神を求めさせない魔物となり兼ねない。

しかし「貧しさ」は頼るべき物がないという現実を前に、それによって神により頼む機会を得て、神を経験させることに導く。6章21節 「いま飢えている者は幸いです」。21節c 「いま泣いている者は幸いです」にも同様。
マタイでは、貧しさについて「心の」と言い、「悲しむ」と言っているのは、霊的な意味合いで語られているが、ここルカでは、地上生涯における「いま」現実的に経験する 《 貧しさ、飢え、涙する 》 生活のこととして語られている。
何故、幸いなのでしょうか ?
20節b’ 「神の国はあなたがたのものですから」、21節a’ 「あなたがたは、やがて飽くことが出来ますから」、21節c’ 「あなたがたは、いまに笑うようになりますから」と。
更に、信仰生活の面では、22、23、「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい」と。
何故でしょうか ?
23節b 「天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです」と。

A 主は、何をもって「哀れな者」と言われるのか ?

24節 「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です」、25節ac「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。・・・いま笑っているあなたがたは、哀れな者です」と。
この富んでいること食べ飽きていること、笑っていることも又、「いま」という現実的に経験する 《 あたかも、祝福されているかのように見受けられる豊かさ 》 のこと。
何故でしょうか ? 24節b 「慰めを、すでに受けているからです」、25節bc'「やがて、飢えるようになるからです。・・・やがて悲しみ泣くようになるからです」。
更に、霊的生活面では、26節 「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」と。

B 主の示されるこの価値観は、実証された。

各例会で学んでいる 『 小羊の王国 』 で、このルカの箇所の解説があった。 “ 十字架に釘づけにされた王の姿は、地上における神の国の逆説性を鮮やかに示している。・・・( 黙示録では )通常の価値が覆されていく ” と( 94ページ参照 )。
確かに主が、極悪人として十字架で処刑された。
主が「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。 ルカの福音書 23章35節」と嘲( あざけ )られても受難に甘んじられた時、その主を見て、薄笑いしたサタンは勝利したと思った。ところが主は、復活によって事態を逆転したのだ。

※ 私たちは敗北だとしか考えられない「いま」を経験しているだろうか ? 主が「やがて、いまに」と保証する幸いを現実と受け止めて待ち望ませて頂けることは何という恵み !! へブル人への手紙 10章35〜39節に留まりたい。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」。

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2017年06月19日

イースター記念礼拝


『 ピリピ人への手紙 』 より 3章5節〜11節

イースターを記念して、パウロが ※ 3章10節 「私は、キリストとその復活の力を知り」と告白している信仰に学びたい。
パウロのこの告白は、主との出会いが許されて以来、心に堅く定めた生涯的追求テーマ・目標である。

@ そのパウロの過去の目標とは ? 人生の価値を何処に ?

5、6節に列挙している 《 人間的な拠り所 》 が、パウロの生き甲斐であり、パウロの誇りだった。
「八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者」と。
ユダヤ人に宛てた福音書マタイの冒頭は、イエス・キリストの系図から始まるが、このことは、ユダヤ人が如何に系図・血統を重視する国民であったかを証している。
彼にとって、ベニヤミン族であることが誇りだったのは、旧約時代の転換期を迎えた出来事に遡( さかのぼ )るが、ダビデの子ソロモンの子の時代に、王に反逆した北民族とは一線を画し、王の血筋ユダ族に付き、南ユダ国に帰属し今日に至っているという経緯から。
又、宗教生活の熱心さにおいては、第一人者との自負があった。「律法による義についてならば非難されるところのない者」であるとは、ガラテヤ人への手紙 1章13、14節 「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、・・・人一倍熱心でした」とある。
しかし非の打ち所がない宗教生活とは、あくまでも外的・儀式的生活を厳格に、かつ忠実に守ったというもの。その為ならばどれ程の克己が求められようと、先祖伝来の慣習を勤勉に学び、誰一人として彼の右に出る者はいなかったと。
私たちにとってはパリサイ人と言う時、主の忌み嫌っておられた、「人に見せるため」に掟を守り、見せびらかし、優越感に浸り、守らない人を罪人呼ばわりした人々との印象がある。ところがパウロは違っていた。只管( ひたすら )神からの誉れを受けようとして学び、実践し、厳格な宗教生活に忠実だった。宗教改革者ルター、ウエスレーにおいても同様だった。

A そのパウロに驚くべき転機が訪れた。

7、8節 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と。
神からの誉れと寵愛を受けるものであれば何でも獲得しようと重要視し、誇りとし、更に情熱を傾けて得た 《 これらのもの全て 》 を、「損と思うように」なったという奇跡的転機である。それらの追及に命を懸けたとしても無意味 !! 無価値 !! 無益と知ったとの意味で「損」だった。
但し、この「損」とは、もっと積極的な( キリストにある自由からすれば )損失だったとの経験に導かれた。

それは、神の寵愛どころか、何と、神に敵対する者だったとの絶望的気付きだった。パウロはいつこの経験に ?
死んで葬られた筈の主の顕現が、パウロに・・・ ⇒ コリント人への手紙 第一 15章1〜11節/使徒の働き ※ 26章8〜18節。
※ 14節 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と言われた時、15節 「主よ。あなたはどなたですか」と答えたパウロの心境を、一体誰が想像出来るだろうか ?

今日まで、 《 キリストを信じることによって義とされる 》 と伝えているキリスト者を、「何という神への冒涜 !! 不敬虔 !! 怠惰 !! 」と糾弾して迫害に命を懸け、それをもって神に仕えていると燃えていたパウロが、そのお方に打たれたのだから。
寵愛どころか、神に仕えていると思っていたことが、実は敵対者だったと知った時の恐怖そのものの大それた「損失」をである。
この経験以来、その思いは、パウロをして「すべてのものを捨てて、それらを塵あくた【ごみくず、値打ちのない物、取るに足りない物】と思っている」と言わせるまでに。
血統付きの家柄、高学歴、神の為にと築き上げて来た功績、経済力( 生まれながらにしてローマの市民権を持っていたことから )、人望・名声の全て、キリスト者迫害事業を買って出たリーダーとしての情熱の全て、これらを価値あるものとして生きて来た生き方にキッパリ背を向け、方向転換したのだ。

B その時以来のパウロの生涯的目標が ※ 10節 「キリストとその復活の力を知」ること !! 「復活の力」とは ?

9節 「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望み」をもたらした力。
ローマ人への手紙 3章23、24節 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められるのです」とある。
パウロは自らの努力で、神の聖前における義を得ようとしたが、その努力では勝ち取ることができないのが義であると知った。
罪人がどんなに努力したところで、神の義に与ることはできない。律法を完全に守って下さったキリストによってのみ、神の聖前に義と認められる。ローマ人への手紙 4章24、25節。
私たちのすることは、ピリピ人への手紙 3章10b'、11節 「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」とあるように、「キリストの死と同じ状態」になること。平易に言うと、聖霊によって示された【肉の性質】を憎み、直ちに、その肉を十字架で滅ぼしてくださった主の犠牲を受け入れること。

※ この復活の力を知ることによって、10節a’ 「キリストの苦しみにあずかることも知って」主の重荷を共に担い、主と隣人とに仕える者と変えられて行くとの約束に与りたい。

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2017年06月10日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 23


ルカの福音書6章12節〜19節

先週はパリサイ人と交わされた論争の四つ目のもの 《 安息日の問題 ※ 5節 「人の子は、安息日の主です」 》 に学んだ。

@ 先ず、「安息日」について :
この聖句は、出エジプト記 20章8〜11節に出て来る 《 モーセの十戒の第四番目 》 のもの。キャンベル・モルガンが伝えている安息日の意義について “ 人は生涯を通して、周期的に物質的なものから霊的なものに、完全に立ち帰るべきである。周期的に安息日が来ることによって、毎日が神の御旨の中に測られ、計画されていることを思うべきである ” と語っている内容を改めて考えた。
この霊的祝福の為には、どうしても肉体を労働から引き離す必要があるということ。私たちは、のべつ幕無しに労働する結果がどのようなものであるのか、論をまたない。

A 「安息日の主です」について :
この事実から、労働時間の苛酷さが問題視されている現代社会にあって、この戒めが如何に侮られているかが分かる。神を、神の神たる座から引きずり降ろしている恐ろしい時代なのだ。従ってこの「主です」とは、十戒を与えられた神の権威を、人々の生活の中心に据え、この命令を生き方そのものに取り戻すことを意味している。

B 同時に主が語られた、9節 「安息日」に為すべきことについて:
ひもじい者への配慮【3、4節】、右手のなえた人への癒し【8、10節】に応えるべきこと。何故なら、律法の中心は 《 愛 》 であり、主なる神は愛だから。ローマ人への手紙 13章8〜10節。

※ 安息日の意義を見直し、主を安息日の主として生活をと。


今朝は、主が ※ 13節 「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」記事に学びたい。

@ 何故、弟子たちを「使徒」という名で召されたのか ?

この「使徒」とは 《 使者・大使・特別な使命を帯びて派遣された者 》 の意であるが、こうして「使徒」として十二人を召されたのは、公的生涯半ばにしてのことである。
13節 「弟子たちを呼び寄せ、その中から」とあるが、その弟子の数が、17節を見ると、「多くの弟子たちの群れ」となっているのを見る。しかも、17節c 「ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた」とある。
その人々は皆、18、19節 「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた」と。
こうした日々の働きから、当然見えて来るものは、「人の子」として肉体的制約を受けられてのご奉仕に伴う限界と、日々迫りくる多くの求めに、悉( ことごと )く応えようとされる主の情熱との狭間でのジレンマである。
こうしたジレンマが日を追う毎に増しに加わる直中で、この「使徒」選出こそ最優先事とされたのだ。これは主の現時点での必要であると共に、近い将来、主が天に召されて後の必要の為である。このビジョンは、昇天直前の使徒たちへの宣教命令( マタイの福音書 28章19節 )からも伺えること。
並行記事マルコの福音書 3章14、15節では、「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるため」と、その目的を明確にしている。
この「身近に置」くことによてである、ここに鍵が !!
主はご奉仕を継続しつつ、彼らの養成に専念されたのだ。それだからというので、民衆からの必要に応えられなくなったということではない。生活を共にする中で、訓練を。

A どのようにして ?

12、13節 「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ」とある。先程触れたが、公的生涯に入られてから、一年半の経過を見られてのことで、「使徒」選出の為に、慎重に聖父の御心を求めるのに時間を掛けられた。
実は、先に学んだ主のジレンマの問題は、公的奉仕開始後、間もなくのことであった。日々必要が迫られつつも、必要だからというので性急に事を進めずに迎えられた今、これまでも祈りの課題だったが、今、祈りの中で最終的な決断に導かれたのだ。
ヨハネの福音書 5章30節 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです」が、主の「人の子」としての弁( わきま )えだった。
私たちの生活も又、果たして同様だろうか ?
主は受洗後、従って来たバプテスマのヨハネの弟子に声を掛けたことを契機に、幾人かが働きに伴い始めたものの、弟子としての召しは一年後、更にその半年後にこの「使徒」選出である。何と !! おおよそ、三年余のご奉仕半ばにしてのこと。

B どのような人々を「使徒」として選出されたのか ?

使徒の働き 4章13節 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが・・・」とある。イスカリオテのユダ( エルサレム出身と言われているが )以外は、田舎者とされていたガリラヤ出身で、漁師、取税人であり、人間的標準からするならば見込みのない人々だった。高学歴があった訳でもない。
神の選びについて語っている ※ コリント人への手紙 第一 1章26〜31節を見るならばそれは「神の御前でだれをも誇らせないためです」と。
十二人のうち、主を裏切るユダが選出されていることに、何故 ? と疑問を抱くだろうか ? ユダの名は賛美を意味し、ユダは両親が彼に抱いた希望を背負っていた。もし、この選出に問題を感じるなら、ある人が “ あなたが救われたのは何故 ? と聞くのと同じだ ” と言った言葉を考えたい。
とことん、如何なる者にもチャンスがあるということ。初めの愛、明け渡しの献身なくして召されることは、他の弟子同様あり得ないだろう。ユダも持っていたのだ。

※ 主の働きが、人間的な力量で為されるものではない為、使徒の選出を祈りの内に導かれた主の姿勢に倣いたい。

posted by luckyfachan at 21:35| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする