2017年05月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 21


ルカの福音書5章33節〜39節

先週は 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第二のもので、30節 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた彼らを、主が、32節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と正されたおことばに注目した。

@ 「正しい人」とは ?
直接、30節b’ 「なぜ、あなたがたは」と呟いた「パリサイ人や律法学者たち」を意識されて言われた。律法を極端に重んじて613もの細則を作り、それを守る自らを「正しい人」と自負し、守らない者を罪人としたが、主はこれを惨めな思い込み、自らを正確に見ていない盲目と言われた。

A 「罪人」とは ?
パリサイ人たちが「罪人」と呼んでいる意味合いとは違い、自らの霊的貧困状態を認め、その現状を悲しみ、救いに渇いている人のこと。パリサイ人たちから「罪人」呼ばわりされている人々こそ、主の招かれる「罪人」。
何故なら、彼らこそ、パリサイ人や律法学者たちの語る儀式主義的信仰に満足せず、真実を求めて悩んでいた人々だったからである。彼ら宗教家たちによって蔑視され、会堂から追放されようが、真実を求めて渇く人々だったから。
31節 「医者を必要とする・・・病人」、罪という人の手ではどうすることも出来ない「病」に気付き、罪からの癒しを与える医者を求めている人々だったから。

※ パリサイ人も、自ら「罪人」であるとの正直な自覚に導かれさえすれば良い聖霊の光に素直でありたいと。


今朝は、論争の三番目のもので 《 断食のことから 》 である。
パリサイ人が問題視し抗議したのは、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」というものだった。
主はこの抗議に対して、34、35節 「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」と答えられた。
この聖句を、リビングバイブル訳は極めて平易に、「しあわせな人が断食しますか。結婚披露宴で、花婿の招待客がお腹をすかしたままでいることがあるでしょうか。もちろん、ありえません。しかし、花婿が彼らから引き離される日が来ます。その時こそ、断食するのです。」とある。
一見、主は断食を不必要だとしておられるかのように思われるが、そうではない。マタイの福音書 17章21節 「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と、むしろ勧めておられ、必要不可欠だとさえ言われるのだから。
主は断食を重視しておられる。それでは何故 ? 今ではなく、後にと言うだけで片付けられたのか ? 彼らに必要なのは、断食についての云々ではなかったから。彼らが「断食をしており、祈りもしています。・・・食べたり飲んだりして」と、如何にも 《 自分たちは真っ当な敬虔な信仰者、断食しない主の弟子たちは何という不届き者、不敬虔極まりなし 》 とする心の態度を問題にする必要を感じられたからである。
そのような訳で、36〜39節のたとえを持ち出されたのだ。
彼らの「している」と自負する断食には、主の聖前での価値・意味など全くなかった。主は、彼らに “ わたしもしている、弟子たちにも指導している ” と言おうと思われれば幾らでも言うことも出来たが、弁解の必要を覚えられず、直ちに、彼らの失われた貧しい霊的状態に向き合われた。

彼らが扱われなければならなかったこととは ?
39節 「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『 古い物は良い 』 と言うのです」と言い張って、決して「新しい物を望」もうとしない、受け入れようとしない 《 パリサイ人の頑( かたく )なさ、強情さ 》 だった。
主はこの聖句を容認して仰っておられるのではなく、問題だと言わんが為に持ち出された。
即ち、主が人々の心を照らす光として来られて以来届けられることになった新しい真理、人々はその新しい光・真理を好まずに退け、いつまでも従来通りの生き方、即ち形を重んじ、自己満足的な生き方を以って、それで良しとすることへの忠告、警告としてのおことば。
事実、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。・・パリサイ人の弟子たちも・・・」と、18章12節 「週に二度断食」したのだ。彼らの動機は、マタイの福音書 6章16〜18節 「・・・断食していることが人に見えるようにと・・・」にあった。あくまでも断食は、自発的なものであって、単なる習慣として行うことには意義も価値もないにも拘らず。
この39節に導く為に、主は、36、「新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません」というたとえと、37、「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません」との話をなさった。
そして、其々、もしそのようなことでもすれば、36節d 「その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」、37節b’ 「新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます」と。
即ち、新しい布は収縮性に富んでいるので、収縮性を失ってしまった古い布に継ぎ合わせることは出来ない。同様に、新しいぶどう酒は醗酵して膨張するので、伸び切ってしまった古い皮袋の中に入れることは出来ない。

主は、頑( かたく )ななパリサイ人に、二つの勧めを与えられた。

@ 主が与える新しい真理【新しい布・ぶどう酒】は、ユダヤ教の古い形式主義に生きる人々には耐えられないもの。

パウロが、教会を迫害したことに顕著。

A しかし、主の与える新しい真理を受け入れる為に、38節 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」に従うべきであること。

教会を迫害したパウロが、主からの強い光を受けた時、明らかにされた自らの紛れもない罪の事実の前に謙らせられたようにである。

※ 今日という今日、新しい光に従うお互いでありたい。

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2017年05月25日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 20


ルカの福音書5章27節〜32節

先週は、5章17節〜6章11節まで続く 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第一のもので、20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」との主の宣言を目撃した律法学者、パリサイ人たちが、21節 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ」と異議を唱えた 《 罪の赦しの問題 》 に注目した。
もう既に、主の働きは一年を経過しており、その評判が、ガリラヤ地方のみならず、エルサレムにまで及んでいた為、民衆からは好意的に受け入れられる一方、議会からは危機感をもって観察されるようになって来た時期のこと。
しかし主は、それと知りながらも言動の全て、24節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」との重荷をもって働かれた、そこに注目。

@ 主のパリサイ人への重荷 :
常に反抗的なパリサイ人も、福音に触れるチャンスを与えられるべきとの魂への重荷からである。21〜24節は、彼らとの懇( ねんご )ろな関わりである !! 抗議する彼らを悟らせようと時間を取られた。しかも、23節 「・・・どちらがやさしいか」と、平易な問い掛けをもってである。

A 主の求めて来る者への重荷 :
17節 「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられ」、実際生活への関心は大。しかし究極の救いが、20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」にあることを伝えたく腐心された。私たちの主への求めも又、先ず、内的渇望こそ主の願いであると見て、祈りを吟味したい。

※ 主を贖い主であることをもって賛美する者でありたいと。


今朝は、5章1〜11節のペテロたちに次いで、27節 「わたしについて来なさい」と言われた取税人レビ【別名・マタイ】の召命の記事からですが、先週学びましたように 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第二のもので、30節 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた 《 罪人たちと食事を共にする問題 》 に注目する。
レビが、28節 「すると・・・何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」そこに、何を私たちは見るだろうか ?
その時の様子を伝えるのに、レビ自らの手による 『 マタイの福音書( 9章9〜13節 ) 』 は極めて控え目である。
と言うのも、ルカは、29節a 「レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが」と前置きして、※ 29節bで、「取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」ことに言及している。この「大ぜいの人たち」とは、パリサイ人が嫌悪して「罪人ども」と呼ぶ人々で、彼らが招れているのだ。
かなりの経済力があったと考えられる。しかし彼は、それらを潔く捨てたのだ。捨てただけでなく、早速仲間を招き、しかも、彼の招きに直ちに応じる罪人たちがいたと言うのだ。
彼のこの即刻の行動に、主に声を掛けられたことへの感動がどれ程のものであったのかが伝わって来る。
同時に、彼の感動にいち早く反応したパリサイ人の、30節 「すると・・・」の速さ、そこには彼らを蔑視する強さの現れが。
しかし今一つの速さを、主の ※ 31節 「そこで、イエスは答えて言われた」に見る。これは、主が如何に、彼らをして呟かせる肉を嫌悪しておられるか、その強さの現れなのだ。

今朝は、このようなピッチの早い動きの中で、最も注目すべき ※ 32節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」に注目したい。

@ 「正しい人」とは ?

直接、30節b’ 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた「パリサイ人や律法学者たち」を意識されて言われた。
この人々は、律法を極端に重んじた結果、その内容を無数の細目に区分して、248の積極的戒律、365の消極的戒律、合計613( 十戒の文字の数 )の戒律を順守した。これらを守らない人々を、罪人だとして軽蔑して交わろうとはしなかった。厳密に言って「正しい人」など、人の子となられた主を他にして存在しない。自分を「正しい人」だと自負するに過ぎない人のこと。主が彼らを、盲目だとされたのは、この惨めな思い込みの為に自分を知らないからである。
何故、彼らは自らを正しい人とするのか ? 彼らは、先程の戒律を守っていると自負するからである。守っているから正しい、守っていないから罪人であるとは、極めて楽観的・短絡的発想であり、自らを知らない恥ずべき誤算なのだ。
H・ナウエン著 『 放蕩息子の帰郷 』 98、99p
“ 兄息子の内に失われた状態を見付けることは、遥かに難しい。取り分け彼は、何時も正しい事を行なって来た。・・・しかし、弟息子の帰宅を喜んでいる父の姿を目にし、彼の内にある闇の力が表面に噴出して煮え返った・・・ ” の如くに。

A 「罪人」とは ?

パリサイ人たちが「罪人」と呼んでいる意味合いとは違い、自らの霊的貧困状態を認め、その現状を悲しみ、救いに渇いている人のこと。パリサイ人たちから「罪人」呼ばわりされている人々こそ、主の招かれる「罪人」。
何故なら、彼らこそ、パリサイ人や律法学者たちの語る儀式主義的信仰に満足せず、真実を求めて悩んでいた人々だったからである。彼ら宗教家たちによって蔑視され、会堂から追放されようが、真実を求めて渇く人々だったから。
31節 「医者を必要とする・・・病人」、罪という人の手ではどうすることも出来ない「病」に気付き、罪からの癒しを与える医者を求めている人々だったから。
レビ( マタイ )は、主からの声を聞くや否や、28節 「すると」と、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」。主の洞察に感動したからなのだ。願ってもない声掛けだったのだ。仕事柄、世の批判さえ忍べば、経済的保証はある立場を、レビに即刻捨てさせたのは、自らに目を留められた主の愛だった。レビの喜びようは ※ 29、30節にあると見た。
ヨハネの手紙 第一 4章9〜11節 ⇒ ※ 10節 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」との事実、それを受けて ※ 11節 「神がこれほどまでに・・・愛してくださったのなら、私たちも」との主の愛に感動するが故の献身こそ、レビの経験なのだ。

※ パリサイ人も、自ら「罪人」であるとの正直な自覚に導かれさえすれば良い。聖霊の光に素直でありたい。

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2017年05月22日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 19


ルカの福音書5章17節〜26節

先週は、1節 「ゲネサレ湖( ガリラヤ湖 )」で、もう既に、一年余り前からご奉仕に同伴させていた弟子たちを召されたという出来事に注目した。ということは、漁師としての仕事に就きながら奉仕していた彼らが、ここで初めて、11節 「・・・何もかも捨てて、イエスに従った」時のことだったと。
この確認の上で、10節 「これから後【詳訳 : 今から】、あなたは人間をとるようになる」の 《 今 》 とは、8節 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『 主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから 』 と言った」その時であったことから、Message を。
ペテロは何と !! 自らの罪深さの自覚に導かれたのだ。
9節 「それは、大漁のため」と、予想だに出来なかった桁外れの「大漁」を目の当たりにしたからだが、命じられた主への畏れ、同時にペテロの内的実情のおぞましい現実に恐れを感じたからだ。彼は、5節b’ 「でもおことばどおり・・・」とは言ったものの、直ちに従えなかった心の根に在る性質、自負による主への蔑( さげす )み、自らの霊的貧困状態を知った初めてのこの「今」の経験が、転機となってのこと。どの時点でも、この「私は罪深い人間です」との自覚こそ、その自覚が起こるその都度の経験こそ、主に従う者の本質的資格だということ。
主はそのペテロに、10節b’ 「こわがらなくてもよい」と告げて、彼を召しに相応しいとされた。その時こそ、8節 「離れてください」ではなく、十字架に近づくべき時なのだとも。

※ 11節 「何もかも捨てて」従った彼らの信仰こそ、主の求めておられる姿勢であると覚えて互いの信仰としたい、と。


今朝お読みした ※ 5章17〜26節の出来事は、6章11節まで続く 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第一のものである。
因みに、続く第二は、5章27〜32節の罪人たちと食事をすること/第三は、5章33〜39節の断食に関すること/第四は、6章1〜11節の安息日に関することである。
これらの機会を通して、私たちは主がどのようなお方であるかを知ることになる。
第一の論争は、罪を赦すことに関する問題だった。
事の発端は、主の御許に ※ 18節 「男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た」時、主が ※ 20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」と宣言された 《 罪を赦す権威 》 の問題にあった。これを目撃した律法学者、パリサイ人たちが、直ちに、21節 「理屈を言い始めた。『 神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。 』 」と異議を唱えたのだ。
もう既に、主の働きは一年を経過しており、その評判は、4章37節では「回りの地方の至る所に広まった」とあるが、ガリラヤ地方を取り巻く地域に留まるものではなかった。
パリサイ人たちが主を訪ねるのに、エルサレムからの北へ160キロの距離を、ものともしなかった。それも、実際主のしておられることを観察し、神への冒涜行為と見做されるものが見付けられれば摘発し、直ちに法廷に訴えようとの構えで押し掛けて来たのだ。先回、弟子たちが直接献身に導かれるまで、漁師の仕事に就きながら主に同伴して、ご奉仕に加わっていたことを見た【ヨハネの福音書 2〜5章】の記録にその予兆がある。
ガリラヤのカぺナウムを宣教の拠点としつつ、エルサレムで行われた宮きよめがその一つ。又、主を夜密かに訪ねて来たニコデモによる ※ 「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことが出来ません。 ヨハネの福音書 3章2節」とは好意的な見方であるが、実は、議会の大多数は危機感を感じて来ていたからだ。
私たちは、十字架の日に向けて勢力を増して行く彼らの殺気を意識なさりつつ、立ち向かわれる主を見て行きたい。

主の言動は全て、それを見る人々の反応如何に左右されずに、24節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」との重荷、動機によって。

@ 主の 《 悪意を抱くパリサイ人への 》 重荷 :

主の、最後の晩餐でのおことばを思い出したい。ヨハネの福音書 15章22〜24節 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら・・・。もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには ※ 罪【脚注 : 罪責】がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです」と仰ったおことば。
結果の善し悪しではなく、福音に触れるチャンスを与えるべきとの魂への重荷からである。何かと反抗的で、21節 「ところが・・・理屈を言い始めた」と攻撃的になる彼らにではあるが、迫害者パウロこそ、その彼らの第一人者であったにも拘らず、後日救われた事実を見逃してはならない。
21〜24節には、何という懇( ねんご )ろな、彼らとの関わりが !!
21節 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ」と抗議し始めた彼らを無視せず、悟らせようと時間を取られた。しかも、23節 「・・・どちらがやさしいか」と、平易な問い掛けをもって。主のわざは主の神たる事実の証だと迫られては、納得せざるを得なくされる筈の彼らなのだが。

A 主の 《 求めて来る者への 》 重荷 :

17節 「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた」とあるように、主は実際生活における厳しい状況からの救出に無関心ではない。しかし、究極の救いが、20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」にあることを伝えようと腐心された。主を求めて大勢で群がって来る人々に如何にして 《 究極の病・罪からの救いを知らせ、導くのか ? 》 このジレンマの中で、主は ※ 16節 「よく荒野に退いて祈っておられた」。
18、19節で、「何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた」病人の友の信仰をご覧になった時、主の喜びはどれ程のものだったことか !!
主がいつものように、中風を癒されたのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのは、彼らに肉体の癒し以上の求め、内的必要をご覧になったから。この赦しこそ与えたいわざだったからである。私たちの主への求めも又、先ず、内的渇望をこそ主の願いであると見て、祈りを吟味したい。

※ 主を贖い主であることをもって賛美する者でありたい。

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