2017年04月29日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 16


ルカの福音書4章16節〜30節

先週は、荒野における試みに勝利された後、14節 「御霊の力を帯びて」ご奉仕を開始された主に注目した。
その始まりは、14b、15、22節に見られるように、極めて好意的に迎えられ、前途は明るく輝かしくさえある。
それは ※ 21節 「イエスは人々にこう言って話し始められた。『 きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。 』 」との宣言を聞く前から、朗読される主に、未だ見たことのない品位・権威に、圧倒されていたからだ。
救い主待望の長い長い沈黙を破って発せられた主のお言葉、「きょう・・・実現しました」と聞いた会衆の皆が、主に釘付けにされ、身震いする程の畏れに見舞われたのは当然。
18節、に、派遣の目的が明らかにされている。
@ 18節e 「捕らわれ人には赦免を」。
第一義的には【戦争の捕虜とされている人】のことであるが、主は罪の捕虜、「罪の奴隷」からの解放をもたらすと。
A 18節f 「盲人には目の開かれることを告げるため」。
主は文字通り、盲人の目を開かれるという奇蹟を行われた。しかし究極の意味は、霊的盲目の開眼である。
B 18節g 「しいたげられている人々を自由にし」。
地上生涯において理不尽だと思われる境遇によって「霊的に打ちのめされている人」のこと。困難な生活環境は、霊的にも影響を与えるが、その直中で勝利させるお方。

※ しかし、これら故の主への驚異的感動は ※ 22節b 「この人は・・・」との侮蔑的処遇に変わる。こうした反応こそ、主の今後の奉仕の象徴的場面だったと見て学びを進めたい、と。


今朝は、イザヤ書を朗読して、21節 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と仰る主を、22節 「みなイエスをほめ( ※ 証言する、確認する )、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」郷里ナザレの人々が、懐疑を抱き ※ 22節 「この人は、ヨセフの子ではないか。」と言い出し、主を侮辱する態度に出た点に注目したい。
このことは、主が公生涯に入られた初めての経験である。
彼らは一体、何が言いたかったのか ?
主の語るところには感動し、確かに救い主として認めざるを得なくされて称賛に値する品位・権威を感じた。それは、31、32節に出て来るカぺナウムの人々が感じたものと同様。
にも拘らず、何故彼らは、急変したのか ?
22節の言葉の先には、28、29節 「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」という、恐るべき事件があるのだ。この恐ろしさは、主に感動し、主を称賛した上で、殺意を抱き、殺害しようと怒り狂う事実にある。
果たして ※ 22節の段階で、彼らは「主を丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそう」と考えていただろうか ?
主は人の心を知るお方( ヨハネの福音書 2章24、25節 )。23節 「きっとあなたがたは、『 医者よ。自分を直せ。 』 というたとえを引いて、カぺナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言う・・・」との主の一言で最高潮に達し、28節 「これらのことを聞くと・・・怒り」となると。

主は、郷里の人々を扱われたのだ。
22節の、「この人は、ヨセフの子ではないか」と呟かせるその心の根にあるもの、心の奥の闇に光を当てられた。
この呟きは、ふと出た言葉。人間的には聞き流せるものかも知れない。彼らが、主に懐疑を抱いたことを当然だと考えれば、聞き流せる言葉。彼らは当たり前のように躓( つまず )いた。
マタイの福音書では、「 『 この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。・・・すると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。 』 こうして、彼らはイエスにつまずいた。13章54〜57節」と。しかし「どこから」が明らかにされたにも拘らず、唯、パウロが「人間的な標準でキリストを知っていた・・・。 コリント人への手紙 第二 5章16節」と言っている 《 肉の目 》 が受入れさせない、頑( かたく )なさが障害となった。
しかし主は、聞き逃さずに直ちにその呟きを問題視された。
何故なら、彼らのその言葉は、主を殺害しようと謀らせる罪の恐るべき性質から出ていると知っておられたから。マタイの福音書 15章18〜20節 「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と。
主が用いられた ※ 4章24〜27節の言葉が、彼らの正体を露わにした。異邦人を神が用いられた旧約の出来事を引き合いに出して、昔も今も変わらず、預言者への扱いは同様だと触れ、同時に異邦人には神の顧みがあるとの重荷の吐露をなされた。

a. 25、26節 ⇒ 預言者エリヤの時代でのこと。
b. 27節 ⇒ エリシャの時でのこと。
何れも共通的なことは、25c、26節 「イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされた」、27節 「イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」と、イスラエル人が憎む異邦人を神の働きに起用されたという事実である。
彼らの言い分は、イエスとは自分たちと同じで、特別な家柄でもなく、自分たちを差し置いて、何処に取り柄があるというのか ? 何処に救い主となる素養があるというのか ? ・・・だった。その感情を、異邦人にも向けたのだ。
何という嫌悪すべき優越感に浸る自己顕示欲がそこに !!
自分以外の者が祝福されることに我慢できない !! のだ。

※ 30節 「しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた」とあるのは、主が如何に、肉なる性質を嫌悪しておられるかの顕著な証である。箴言には、「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手・・・。 6章16〜19節」とある。私たちは、「行ってしまわれた」主の後ろ姿に、何を見るだろう ? 何という厳格な態度 !! 主の忌み嫌われる 《 肉なる性質 》 を内に見出させられたならば、直ちに嫌悪し、十字架の血による清めに与り続けたい。

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2017年04月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 15


ルカの福音書4章14節〜30節

先週は 《 三位一体の神による奉仕の開始が公的に告げられた 》 主の受洗直後、悪魔の試みに遭遇された記事に注目した。

@ 悪魔の試みは、「聖霊に満ち」ておられる主に対して為され、又、「御霊に導かれて」のことであったと。
即ち、聖霊の主導の下でのこと。それは主が、14節 「御霊の力を帯びて」開始されるご奉仕に備える為にである。
悪魔は、聖霊の主導権によって許された誘惑の機会を “ これ幸い ” として、主を罪に陥れる機会にしようと、13節 「誘惑の手を尽くした」のだ。

 《 具体的に、どのような ? 》
a. 3節で、主が人の子となる為に棄てられた神たる特権を、自らの欲望を満たす為に利用させようとしたこと。
b. 5、6節は、妥協による栄華への誘い。復活によって確実となる再臨によって、万物は主の御手に収められる。サタンはこの事実を知って、十字架の死を避けさせ、悪魔に妥協して、自らの物にしたらどうかと提案した。
c. 9〜11節で、救い主出現を待望するユダヤ人を一瞬にして驚かせて人気を博させ、今後の働きを有利にしては ? と。

A 何と幸いなことでしょう !! 「聖霊に満ちたイエス」は、悪魔の試みに屈することなく、悉( ことごと )く勝利されたこと。
悪魔の試みに対してその都度その都度、聖書のおことばで、「イエスは答えられた。4、8、12節」と、悪魔の誘いに決然と応じられた。先に触れたが、その時、14節 「御霊の力を帯びて( 聖霊に満たされて )」の奉仕に備えられている !!

※ へブル人への手紙 4章15、16節 「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の聖句は、私たちにおいて現実的であると感謝しつつ、聖霊のこの招きに応じたい、と。


今朝は、荒野における試みに勝利された後、14節 「御霊の力を帯びて」ご奉仕を開始された主に注目したい。
その始まりは、ガリラヤ地方全域で、14節b 「評判が回り一帯に、くまなく広まった」とあり、15節では「彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた【詳訳: 承認、尊敬、賞賛を受けられた】」とあるように、極めて好意的に迎えられ、前途は明るく輝かしくさえあるように感じられる。
その後の郷里ナザレでのこと、主の朗読を聴いた人々の反応でも又、22節 「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」とある。
それは、21節 「イエスは人々にこう言って話し始められた。『 きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。 』 」との宣言を聞く前から、朗読される主に、未だ見たことのない品位・権威に圧倒されていたからだ。
そして、「話し始められた」権威ある言葉に驚嘆 !!
何という厳粛な瞬間。主に手渡された巻物は、イザヤ書だった。主はこのイザヤ書から、ご自身について語られている箇所を読まれ、20節a 「・・・書を巻き、係りの者に渡してすわられた」瞬間、一斉に、20節b 「会堂にいるみなの目がイエスに注がれた」、その時に発せられた言葉 !!
救い主出現は、モーセの書の記録から2000年の歳月が流れていたが、それまでの待望期間の長い長い沈黙を破って発せられた主のお言葉。朗読を聞き、「きょう・・・実現しました」と聞いた会衆皆が、イエスに釘付けにされた光景から、身震いする程の畏れに見舞われた感情が伝わるではないか。

実に主は、21節 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と、額面通り信じられ、畏れられるべきお方なのだ。
18節 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた」お方。
主が公生涯に入られる直前に受洗された時、聖霊の注ぎと共に、天からの「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」の声が掛けられたあの光景に言及している。
ここで敢えて「貧しい人々に」とあるのは、主が如何に「貧しい人々」に関心を寄せておられるかの重荷の吐露である。
と同時に、貧しい人々への世の蔑( さげす )みを戒め、彼らこそ祝福されるべき人々と示すことによって、富めることをもって高ぶっている者を戒め、謙ることへのメッセージが込められている。

聖父に遣わされた目的、主が伝える福音とは ?

@ 18節e 「捕らわれ人には赦免を」。

この「捕らわれ人」とは、第一義的には【戦争の捕虜とされている人】のことであるが、主は正に罪の捕虜、「罪の奴隷」を意味して語られた。ヨハネの福音書 8章31〜34節のことで、罪からの解放を与えるためである。ローマ人への手紙 6章6、16〜23節 「※ 22、23 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と。

A 18節f 「盲人には目の開かれることを告げるため」。

主は文字通り、盲人の目を開かれるという奇蹟を行われた。しかし究極の意味は、霊的盲目の開眼である。
ヨハネの福音書 9章39〜41節 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」とある。自分は見えていると豪語する者が、実は、見えてはいない、盲目だったということに気付くためであると。何について盲目かというと、自らの罪人たる正体に無知、という盲目をである。

B 18節g 「しいたげられている人々を自由にし」。

詳訳 「不幸によって踏みつけられ、痛めつけられ、押しつぶされ、打ちひしがれている者たちを解き放ち」とある。
ここでは、地上生涯において理不尽だと思われる境遇が意味されている。日常お互いが経験し、又見聞きさせられている現実的な困難な状況である。最後の「打ちひしがれている」とは、それらによって「霊的に打ちのめされている人」のこと。確かに生活環境から、人は霊的に影響を受ける。それらを摂理として受け止め、それらの直中にありながら勝利する恵みを与えるお方なのだ。ローマ人への手紙 8章35〜37節 「私たちは、私たちを愛してくださった方によって・・・圧倒的な勝利者となるのです」。
これらを、19節 「主の恵みの年を告げ知らせるために」と締め括っておられるのは、これらが 《 神の好意としての宣言 》 だからである。

※ しかし主への驚異的感動は、何と、22節b 「この人は・・・」との侮蔑的処遇に変わる。こうした反応こそ、主の今後の奉仕の象徴的場面だったと見て、学びを進めたい。

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2017年04月15日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 14


ルカの福音書4章1節〜15節

先週は 《 主の受洗の意義について 》 3章21節 「民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスも・・・」と、バプテスマを受けた「民衆」と同じようにと言っているところから学んだ。
これらの民衆は、自らの罪を認め、現状からの救いを求めてヨハネに詰め掛けた人々。しかし主は、その群衆と同じ筈がない。22節の主への天からの聖声がそれを証している。
へブル人への手紙5章7〜10節。主は神であられるのに、「人として」一定期間地上で誘惑に遭遇されながらも、7節 「その敬虔のゆえに」との姿勢を以って完全なご生涯を送って来られた。
主は、群衆と同様な罪人では有り得なかったが、罪を告白した群衆たちのその罪を、ご自身が引き受け、「私たちの代わりに罪と」なって下さった、この一事の為にである( コリント人への手紙 第二 5章20節 )。
R・アールは、「キリストの受洗は十字架への序曲であった」と言っている。3章23節では、 《 主が公生涯に入られた 》 ことを伝えているが、実に、十字架への新しい節目としての第一歩の始まりが告げられたのだ。
天から告げられる聖父の声は、後、主のご生涯において要となる場面で、二度掛けられている ⇒ 9章35節、ヨハネの福音書12章28〜30節。聖父との交わりは日々のこと。従ってこの声は、「わたしのためにではなくて、あなたがたのために」である。
バプテスマのヨハネも又、この時のことを受けて「証言している」と。

※ 主のこの受洗は、三位一体の神 《 聖父の声・鳩のような形で聖霊 》 が、御子と共に贖いの大事業の為、十字架への道を踏み出された出来事として厳粛に覚えたい、と。


今朝は 《 三位の神による奉仕の開始が公的に告げられた 》 主の受洗直後、悪魔の試みに遭遇された4章の記事に注目したい。

@ 悪魔の試みは、「聖霊に満ち」ておられる主に対して為され、又、「御霊に導かれて」であったこと。

並行記事を見ると、マタイの福音書 4章1節 「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」、マルコの福音書 1章12節 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」とあり、ルカでは、1、2節 「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」とある。
聖霊に満ちているということは、聖霊に支配されている、聖霊の導きのもとに身を委ねているということを意味するので、聖霊に身を明け渡しておられた主は、聖霊の意図されるところに従って荒野におられたということなのだ。1節の「御霊に導かれて」とは、詳訳で【道案内されて】とあり、聖霊が主導権・明確な目的を持っておられてのこと。

聖霊の 《 主を試みるがままにされた 》 その意図とは ?

14節 「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とある「御霊の力を帯び」て、開始されるご奉仕に備える為にである。その証拠として、マルコによる「そしてすぐ」と、受洗後直ちに「追いやられた」ことで明白。
この「試みに会われた」とは、試験に晒( さら )すの意。即ち、主がどのようなお方であるのかを更に、聖父及び聖霊がより吟味して知ろうとされたのだ。
聖霊は主がこの「悪魔の試みを受けるため」に、悪魔に主を誘惑させたという 《 主導権 》 を持っておられた。悪魔は、聖霊の主導権によって許された誘惑の機会を “ これ幸い ” として、主を罪に陥れる機会にしようと、13節 「誘惑の手を尽くした」のだ。誘惑は、神の子たちを際どいところに置くが、あくまでも主導権は聖霊にあると覚えたい。

13節 「誘惑の手を尽くした」とは ?

a. 2節 「空腹を覚えられた」時に試された。
3節 「そこで、悪魔はイエスに言った。『 あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。 』 」とは、肉体的欲望への訴えである。「あなたが神の子なら」とは、何という巧みさ。神の子の特権を、自らの欲望を満たす為に利用させようとした。欲望は、神が人に、生きるのに必要なものとして与えられた良き物であるが、正当な欲望を不当な手口で自分の物にする時、ヤコブの手紙 1章15節 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」という結果に。
b. 5〜7節 「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『 この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。 』 」と、妥協による栄華へ。
主はサタンについて、「この世の支配者 ⇒ ヨハネの福音書 12章31節、14章30節、16章11節」と言っておられる。エペソ人への手紙 6章11〜13節でも、「この暗やみの世界の支配者たち」と。
コリント人への手紙 第一 15章20〜28節 ⇒ 主の再臨の時、この世はサタンの手から主に渡される。24節 「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし・・・」と。この復活によって確実となった再臨によって、万物は主の御手に収められる。サタンはこの事実を知りながら、十字架の死を通過せずに、悪魔に妥協して、自らの物にしたらどうかと提案したのだ。あくまでも、聖父の御心からの逸脱を謀り、安易な道を選択させようとの魂胆である。
c. 9〜11節 「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂( いただき )に立たせて、こう言った。『 あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい・・・ 』 」と。
今日にでもと、救い主の出現を待望していたユダヤ人を驚かしてみてはどうかとの誘惑である。そうすれば、直ちに人気を博し、願っている働きを有利に導くと。

A 何と幸いなことでしょう !! 「聖霊に満ちたイエス」は、悪魔の試みに屈することなく、悉( ことごと )く勝利されたということ。

悪魔の試みに対して、その都度その都度、聖書のおことばで「イエスは答えられた。4、8、12節」と、悪魔の誘いに決然と応じられた。先に触れたが、その時、14節 「御霊の力を帯びて( 聖霊に満たされて )」の奉仕に備えられている !!

※ この出来事によって、へブル人への手紙 4章15、16節 「・・・おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の聖句は、私たちにおいて現実的であることを感謝して、聖霊によるこの招きに応じる者でありたい。

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