2019年02月14日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 106


ルカの福音書23章44節〜49節

先週私たちは、ゴルゴダにお着きになられるや、直ちに処刑に服された主に思いを寄せた。主がこの地上に来られて初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶、その日以来「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところも・・・ ルカ 9章58節」なく、地上最後に身を横たえられた場所が、十字架の上だった主に。
戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「そのとき」と、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは・・・何をしているのかが分かっていない」と発せられたこの祈りに注目した。

@ 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。
実に、主の処刑のこの日こそ、大祭司が年に一回、会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携え、聖所から隔ての幕を通って至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めた贖( あがな )いの日。小羊の血ならぬ 《 流しておられるご自身の血をもって 》 捧げられた執り成しの祈り。

A 神の子たちへの 《 この生き方への招き、宣教の鍵 》 の祈り。
主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人を悔い改めに、47節 「百人隊長」を救いに導いた。
更に、初代教会最初の殉教者で聖霊に満たされたステパノは主のこの祈りを捧げる人と変えられていた人物。使徒 7章54〜60節の彼の殉教現場で、迫害者パウロも又、後日まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。

※ 主のこの祈り故に救われたお互いも又、この生き方を、と。


今朝私たちは、主が十字架上で成し遂げなければならなかった地上最期の聖務の場に臨む。
マルコには主の処刑が「午前九時であった。 15章25節」と言及されており、ルカ 23章44節 「さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた」とあることから、十字架上におけるご聖務は、六時間に及ぶものだったことが分かる。
主が、この日に向けて成し遂げて来られたご奉仕の真価と有効性は、このご生涯最期の六時間の主の在り方如何にかかっていた。それは、仮に、今日までのご奉仕が完璧だったとしても、息を引き取られるその瞬間まで、聖父の御心を完全に満たす無傷の小羊として自らを捧げ尽さなければならなかったからである。しかも主の最期の戦いであることを知っているサタンの挑戦は、より巧みで執拗であることから、極度の緊張感を必要としておられる聖務である。
へブル人への手紙 5章7〜9節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」とあるように、地上生涯どの場面での経験より、この最期での経験程、強烈に感じられたことはなかったのでは ?
神の御子であられながら「肉体をもって生き」る人の子としての弱さは、断末魔の苦しみという極限状態に於いてこそ、試されるからである。

cf. プリント【十字架上の七言@〜F】は、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりであり、聖霊はこのおことばを明記することによって、人の子となられた主が 《 完全に聖父の御心・人類の贖いを成し遂げられたこと 》 を知らせている。
これらの七つのおことばの頂点は、46節 「イエスは大声で叫ばれた。『 父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。 』 こう言って、息を引き取られた」である。何故このおことばが、頂点なのか ? それは聖父の御心を完全に成し遂げた 《 勝利宣言 》 だから。
主はこのおことばを 《 十二時頃から三時間、全地が真っ暗闇に包まれての最期の午後三時 》 息を引き取られる直前に「大声で叫ばれた」勝利宣言なのだ。
主が先ず、闇のベールが恐ろしく全地を覆った時に、Cマタイ 27章46節 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『 エリ、エリ、レマ、サバクタニ。 』 これは、『 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 』 」と叫ばれた叫びは、聖父から完全に捨てられた瞬間である。
父なる神とは、これまでずっと「父よ」と、親しくお呼び出来る関係にあった主。ところが、この時ばかりは最早「父」ではなく、罪を容赦なく徹底的に裁く厳格な神、近付くことなど決して許されない神でしかなくなったのだ。
ゲツセマネで、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 マタイ 26章39節」と祈って求められたのは、この恐怖、親しい父から捨てられることへの恐怖からだったが、現実、今味わわれた。

しかしあのゲツセマネでは、未だ、「父よ」とお呼びすることが出来、近付き難いお方としての神ではなかった。
ところが今、主にとっては、「わが神、わが神」としてしかお呼び出来ない、聖父との親交は断たれ、呪われた罪人として出なければならなくされた。その恐ろしさの現れは、Dヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」なのだ。贅沢に遊び暮らしていた金持ちが、門前に居ても顧みなかったラザロを遣わしてくれるようにと言った記事【ルカ 16章24節 「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」】とある 《 苦しみ悶( もだ )える 》 恵みからの絶縁状態。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、Eヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと言うことが出来た。その時の最期のおことばが、F「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だった。
初めに、勝利宣言だったと言ったが、「わが神」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたから。
あくまでも 《 見捨てられたのは人類に代わっての死に過ぎず、わたしと聖父とは、決して断ち切られることのない絶対的愛による信頼関係にあるとの告白 》 で閉じられたからだ。

※ 拒絶されたのでは ? と感じられた時、主が地獄の苦悩から聖父の愛を信頼し抜いた信仰に倣って、信頼し続けたい。

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2019年02月06日

元旦礼拝


マタイの福音書16章21節〜28節

新年の冒頭、終末に生きるキリスト者として、私たちの日々自覚すべきことは何なのか ? に耳を傾けたい。
今朝の聖句の21節には、「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」とあるが、私たちは 『 ルカの福音書 』 によって、既に、主がゴルゴダの丘に処刑された場面まで辿り着かせて頂いた。
死刑囚が自らの処刑具をかついで処刑場に上る中、衰弱し切った主には処刑具の重さは耐え切れずに倒れ崩れながらも、極みまで罪人の行方をのみ気遣い、更には処刑されるや、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかが分かっていないのです」と叫ばれる主に近づかせて頂いて来た。インマヌエル讃美歌 591番 「主はいのちを与えませり、主は血潮を流しませり。その贖( あがな )いにて我は生きぬ。我何をなして主に報いし」と歌っているが、その応えは、今朝の聖句、24節 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との招きに応じることをもってしかない。
この招きのおことばを、私たちは何度学んで来たことか !! 肝心なことは、字句の意味を知ることに意義があるのではなく、主のこの招きが自分の生き方にどれだけ反映されているか ? にある。先ず意味を正確に知ることが必要であるが、知った主のこのおことばに、私の内心はどう反応するか ? の正直で真面目な吟味がなければ学ぶ価値はない。その為に、24節の理解を確認したい。

@ 「それからイエスは弟子たちに言われた」おことば。

この「それから」とは、23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責されてからのこと。主は公生涯の半ばから十二弟子を選出して、福音宣教を担う器の育成に力を入れられたが、このペテロは、17章1節 「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と、12人の中から絞られてより主に近くに呼ばれ、特別な訓練に与った三人の中の一人であり、側近中の側近である。彼らは後に、ペンテコステによって誕生する教会の建設に当たって、重要な役割を担うべく備えられる必要があったからである。
期待が寄せられたのは当然である。ペテロも主の期待に沿って、主から ※ 16章15節 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられた時、16節 「あなたは生ける神の子キリスト」ですと答え、17〜19節では「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです・・・」と、主から言われた。
ところがその直後、主は、彼の信仰を確認して、21節 「そのときから」と、ご自身のご受難について吐露されるが、彼は試されることになった。
何と彼は、22節 「イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『 主よ、とんでもないこと・・・ 』 」と非難して 《 内面に巣食っている腐敗した罪性 》 が暴かれることになった。

主の姿勢は明白 !! 仮に主が彼をどれ程期待し、心血を注いでおられたとしても、ペテロが彼の個人的な同情心から主に苦難を避けさせ、主を、23節b’ 「つまずかせ【妨害、罠】」、聖父の御心に背かせる存在となるならば、主は、「下がれ、サタン」と退けるお方。
ペテロの内的罪の腐敗性について、主は ※ 23節c 「神のこと【神的性質】を思わないで、人のこと【人間的性質・神の性質とは相容れない肉】を思っている」と言われた点にある。ペテロにとって、主の言う惨めな死は、恥辱、立身出世が叶わない失望を意味し、こんなことだけは絶対に聞きたくない、受け入れたくないとする野心がある。
※ 24節 「それから」とは、主の期待を裏切るペテロの実態を見せ付けられてから、ということである。 “ つい先には、「あなたは生ける神のキリスト」だと告白したあなたが・・・ そして、18、19節 「そこで、わたしもあなたに言います・・・」と、贖( あがな )い後に託すべく備えられている教会の権威について宣言したばかり ” だった。 “ その後、信頼したからこそ、受難について吐露したのだが・・・ ” である。

A しかしペテロに、「下がれ、サタン」と言わざるを得なくされた主は、その悲しみに妨げられずに、大胆な宣言をなさったのが、このおことば。

何と !! 毅然と、「だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・」と仰る信仰 !! ペテロを何としても手放すまいとする個人的願いは一切なく、弟子たちの自主性に委( ゆだ )ねる明け渡し !!
主はご自身に従うことを強要はなさらない。何故なら従うという行為は、詩篇 40篇8節 「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります」とあるように、喜んで従うのでなければ無意味、無価値、従うことにはならないから。
従うという行為は、25節、従う者の永遠を決定することだと、弟子たちのいのちの為の招きなのだ。

B 自主性を持って従う、弟子としての条件を明らかにされたおことば。

a. 「自分を捨て」ること ⇒ ペテロは自らの為に抱いた肉的野心、成功、栄誉心を求めようと思えば、その選択もある。しかし真理は、それを得ようとする者には獲得ではなく永遠の喪失。それを神の御心とは相反するものと分かった時には、潔くそれを放棄すること。忌み嫌うこと。
b. 「自分の十字架を負」うこと ⇒ 内に発見させられた 《 神の御心に反する 》 肉的なものを罪と認めて告白し、主と共に十字架につけて死に至らしめ、新しい性質に変えられ続けること。
ルカ 9章23節 「日々自分の十字架を負って」とある。

※ 主は、全ご生涯、聖父の御心に適わないものは全て退け、聖父の御心に従わせて生きることを喜びとされた。私たちも今年、主に倣う弟子として日々従う者でありたい。

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2019年01月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 105


ルカの福音書23章32節〜43節

先週のクリスマス記念礼拝では、処刑場に向かう主について来る、27節 「嘆き悲しむ女たち」に、28節 「わたしのために泣いてはいけません」と、血を滴らせながらも渾身の力を振り絞って彼らの誤りを正された主のみ思いに学んだ。

@ 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?
主ご自身への受難に同情すべきではないの意。嘆く声を黙って聞いていることが出来なかったからであり、とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いの心である。 ゴルゴダに向かわれる主のご受難が【私たちの病、背き、咎( とが )】故だったと分かれば、主への同情心から感傷的になっては居られない恐れに見舞われる筈だから。

A 28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われ、自分自身の罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29〜31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録6章12〜17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ・・・」の聖句でも明らかにされた。その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。

※ 主の「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とある 《 罪の事実を認めて聖前に悔い改めよ 》 に従い、心から悔いて流す涙をもって感謝の涙としたい、と。


今朝私たちは、ゴルゴダへの道を 《 倒れ崩れるみ体を起こされては、涙して悲しむ人々を正しつつ 》 上られた主が、遂に処刑に服された場面に目を向けなければならない。
処刑場に着くや否や、兵士たちは容赦なく、33節 「そこで彼らはイエスを十字架につけた」とあり、この時の様子については、詩篇 22篇の預言によって知らされている。その1節は、cf. プリント【十字架上の七言】4番目のおことばであるが、6〜18節 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲( あざけ )ります。口をとがらせ、頭を振ります。『 主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。 』 ・・・彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」と、実に主のこと。
主が処刑されたこの場が、「どくろ」と呼ばれるのは、その名の如き場所だからだ。血生臭い場所で、処刑された受刑者たちの頭蓋骨が散乱しているからなのでは ?
主がこの地上に初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶。この処刑場のような呪いの場所では勿論ないが、出産の場所としては衛生上適していたとは言えない。しかし御使いは、「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。 ルカ2章12節」と言ったが、主の「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。 ルカ9章58節」を象徴。主の地上最後に身を横たえられた場所が「どくろ」で、十字架の上 !!
又しても、ぬくぬくと安泰であることを求める私たちの生ぬるさに光が当てられて、心刺される光景であるが、こうしたあしらわれ方こそが、御使いの言う救い主たるお方の「しるし」であり、 《 全ご生涯における全場面を象徴する光景 》 なのだ。
驚くべきことは、34節 「そのとき、イエスはこう言われた」と、このような戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」だったことにである !! まさか !! 誰も !! 処刑された人から聞かされる言葉だとは考えも及ばない、耳を疑う言葉が主の御口から発せられた !!

主のこのおことばを考えてみよう !!

@ 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。

実に、主が処刑されたこの日こそ、大祭司が年に一回( へブル 9・7 )会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携えて、聖所から会見の天幕をくぐって至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めていた贖( あがな )いの日。
へブル 9章11、12節 「キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、・・・永遠の贖いを成し遂げられました」と。この実現の為に、同 5章7〜10節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かて、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ・・・完全な者とされ・・・大祭司と呼ばれました」とある。
主が「父よ、彼らをお赦しください」と祈れば、聖父は、御子の完全な無傷の供え物に免じて赦されるとの、体を張っての確信によって大胆に出て下さった執り成しの祈りだった。
コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず・・・」との全き愛によって、罪人の言動の全てを、「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と致命的欠陥を知って祈られた。

A 神の子たちに対する 《 この生き方への招き 》 の祈り。

主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人に、40〜43節 「・・・ 『 ・・・おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。 』 そして言った。『 イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。 』 」と悔い改めに導いた。処刑された時には、主を嘲っていたのだが。
又、47節 「百人隊長」においても然り !!
初代教会最初の殉教者ステパノは、聖霊の愛に満たされて、主のこの祈りを捧げる人と変えられていた。使徒の働き 7章54〜60節の殉教の現場でのこと、そこに居合わせた迫害者パウロも又、後日、まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。ここにこそ、宣教の鍵があるからだ。

※ 今年最後の礼拝の朝、主のこの祈りの故に救われたお互いも又、この生き方に招かれているとの自覚を持って新年を !!

posted by luckyfachan at 21:47| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする