2018年12月11日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 98


ルカの福音書22章35節〜38節

先週は、主が厳かに新しい契約を結ばれた直後、23節の議論に次いで、24節 「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論に花を咲かせた弟子たちに、26節 「しかし、あなたがたは」と、指導されたおことばに学んだ。

@ 弟子たちの議論する態度は、25節【世の権威者が求めて止まない】肉的野心に類似するものだとの指摘。
「異邦人の王たち、権威を持つ者」の野心は、委( ゆだ )ねられた権威をもって、「守護者と呼ばれています ⇒ 自分自身を呼ぶ、呼ばせる、呼ばれたがる」風潮だったからだと。

A 積極的には、27節c 「わたしはあなたがたの間で、給仕する者」との 《 主が取られた在り方に従う 》 ようにと。
a. ヨハネ 13章がその解説。晩餐のテーブルを囲みながら、誰が偉いのかを議論する弟子たちから、しもべの立場に身を置く者など現れる筈のない中、主は、唯、傍観している弟子たちを咎( とが )めるのでもなく、ご自身がその立場を取られた !!
b. むしろ主は、弟子たちのこの後を気遣い、31節 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけ」ると警告し、皆、「力づけ」られる必要があるとまで言われた。
c. 28節 詳訳 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、ずっと、踏み止まって耐え抜いてくれた者」だったとの感謝と共に、29、30節では、やがての祝福まで約束しておられるとは !! お別れに際しての感謝は、忍耐して下さった主に捧げるべきものだったのではないか !!

※ キリスト者の在り方は、この世の原理とは相容れないものだとの自覚の下、主に倣う者でありたい、と。


今朝は、35節で主が、「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか」と、ご自身と共にあった生活を振り返らせてから、36節で「しかし今は」と 《 ただならない新しい局面に入ることを告げられた時のおことば 》 に注目したい。
そして主からの、「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい」とは 《 何が意味されていた 》 のかを考えたい。
ラルフ・アールは 《 平和の時は、戦いの時に変わった 》 と言い、又、他に 《 今は自発的な親切も平和的な受け入れも、名誉ある安全も期待出来ない時を迎えることになった 》 と主は仰っているとも言われている、と。ご自身の捕縛後、弟子たちを待っているであろう困難に備えるべく、警告されてのこと。
確かに主と共にあった三年間、行く所行く所、全てで歓迎されていた訳ではないにしても、弟子たちが「いいえ、( 足りない物は )何もありませんでした」と応えられるような処遇を経験していた。9章1〜9節を見ると、弟子たちは、7節 「領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた」という結果を得ていたのだ。従って、これまで友好的に受け入れられた働きも、今後は、未だかつて経験したことのない状況が待っていると警告されたのだ。
その契機が、37節 「・・・ 『 彼は不法な者たちとともに数えられた 』 と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現する・・・」とある、主の十字架である。

即ち、主の十字架による人類の贖( あがな )いが成し遂げられて後、遂に、福音宣教の為に派遣されるようになるからである。
主のこの予告通りに、『 使徒の働き 』 において現実となっているのを、私たちは見ている。
今朝は、今後の戦いに備えるべく ※ 36節 「・・・財布を持ち、・・・剣を買いなさい」と、その意味するところに注目してメッセージを。
彼らの即刻の反応は、38、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」だったが、弟子たちは主の意図されたことが理解できていたのだろうか ? 恐らく弟子たちは、37節で主によってご自身の最期を明確にされたのを受けて、直ちに主に襲い掛かるであろう事態を想定し、 “ 私たちはこの「二本」の剣で、まさかの事態に主をお守りします ” との勢いによるものだったのでは ? 弟子たちのこの提案に、主は、38節b 「それで十分」と答えられたが、どのように考えても弟子たちが思っているような意味での同意だったとは思われない。
何故なら、39節 「それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた」そこで、主を待ち受けていた捕縛でのこと、49、50節 「イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『 主よ、剣で切りつけましょうか 』 と言った。そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした」。この一人とは、「シモン・ペテロ」で、主から ※ 「剣をさやに収めなさい・・・」と叱責され( ヨハ 18・11 )、切り付けられたしもべは癒された。

又、マタイの福音書 26章52〜54節 「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書がどのようにして成就するのでしょう」とも。
あくまでも主のご意思は、ペテロが受け取ったような意味では言っていないと思われる。私たちは、攻撃用ではなく自己防衛用に、剣を持つように言われたのでは ? と、考えるかも知れないが、同 5章39節では「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と言われ、44節 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある聖句で明らかだ。

※ 今朝、こうしたことから二つのことを。
a. 弟子たちは、直訳主義・物質主義という不運な病気にかかっていたと、ラルフ・アールは言っているが、正に然り。みことばの身勝手な悪用には気をつけたい。自らの身を守る為にならば、剣を使って良しとする文化にはNO !! と。
b. 実際、主の言われた「剣を買いなさい」、弟子たちからの「剣が二本あります」に対して、主が「それで十分」と答えられた主の意図が分からないとしても、無理に考えようとはせずに、主のご性質から全てを鑑( かんが )みつつ、信頼に生きることに留意したい。

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2018年12月05日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 97


ルカの福音書22章24節〜34節

先週は、主が ※ 15節で「わたしは、苦しみを受ける前に」と設けられた最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約 》 について考え、教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係で結ばれている存在 》 との自覚を新たにした。
20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた為、創世記 2章16、17節 「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と、違反には「死」が報いとなった。
しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に 《 出エジプトの日 》 鴨居に塗られた小羊の血を見て過ぎ越された出来事と重ねながら、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けて来ていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「裏切る者」、他の弟子たちも、23、24節 「議論をし始め」る程度の弟子たち。
何故主には、そのような彼らで支障がないのか ?
コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。

※ 忝( かたじけ )なくも、主からの「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい、と。


今朝は、主が、未だ事の重大さに目覚めてはいない弟子たちに、19、20節 「それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『 これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、杯も同じようにして言われた。『 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です・・・ 』 」と 《 厳かに契約を結ばれた直後 》、又しても、24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」とある肉のままの弟子たちを指導されたおことばに学びたい。
この「・・・という議論も」とは、23節で交わした議論、即ち、「自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのか」に次いで出て来た議論だったと考える時、悲しい現実を見る。マルコ 14章19節では、主のそのおことばを聞いた時、「弟子たちは悲しく( 詳訳 : 悲痛な、心を痛めた面持ちに )なり、次々にイエスに言い始めた。『 まさか私ではないでしょう。 』 」とあるこの彼らの悲しみは、どのようなもの ?
もし 《 裏切られることになると言われる主の 》 み思いに気遣い、その裏切る者が誰であれ、互いを一つであると考えているならば、主を裏切るとの滅相もない罪を犯すことになると !! 聞き捨てならない重大事とする悲しみだったならば、その直後の ※ 24節 「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という」議論には、ならなかったのでは ? そこで見えて来るものは、そうした事態を受け入れ難いとする一般的反応のみで、霊的性質のものはない。

主を「裏切る者」が誰であろうと、主に愛された同志として、直ちに “ 私たちの内に潜んでいる罪の指摘 ” だと認めて悲しむ悲しみこそが、最初の反応でありたい。
為すべきことは、誰が ? との議論に時間を取るのではなく、該当者が誰であれ【結論的には、皆、主を捨てて散った弟子たちではないか !!】、彼らの内にある 《 主を裏切らせる肉の事実を知る 》 ことなのだ。
弟子たちの一部始終を知る主はこの事実を見逃さず、丁寧に弟子たちを扱われたのが、今朝の記事 !!
その鍵句は、26節 「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」である。

@ 先ず、議論する弟子たちのそれは、25節、【この世の権威者が求めて止まない】肉的野心に類似するものだとの指摘。

「異邦人の王たち、権威を持つ者」の野心は、委( ゆだ )ねられた権威をもって、「守護者と呼ばれています」と。
ここで用いられている言葉の意味合いについての注解書などを見ると、「 『 自分自身を呼ぶ、呼ばせる 』 とも訳すことができ、彼らはこの称号で呼ばれることを主張し、守護者と呼ばれたがる風潮が強かった」とある。大なり小なり、この世の権威者たちに見受けられる共通的傾向であり、ローマ人への手紙 13章1節 「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって」との、神の啓示に無知でいることによる弊害 !!

A 積極的には、「しかし、あなたがたは」と、上に立たなければならない立場に置かれた者であれば、27節c 「わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」と、主が取られた在り方に従うようにと。

a. 実に主は、この晩餐の席での様子が伝えられている ※ ヨハネの13章にある如く、弟子たちにはこれ以上の解説はない。
晩餐のテーブルを囲みながら、誰が偉いかを議論する弟子たちからは、僕( しもべ )の立場に身を置く者など現れる筈がない。
そのような中、主は立ち上がらずに傍観している弟子たちを咎( とが )めるのでもなく、ご自身がその立場を取られた !!
b. むしろ主は、弟子たちのこの後を気遣い、31節 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけ」ると警告し、皆、「力づけ」られる必要があるとまで言われた。
特に年長者であるペテロが、議論で自らの立場を主張していたからなのか ? 「サタンがあなたがたを」と言われる時、「シモン、シモン」と名指しで、注意を促された。
c. 28節 詳訳 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、ずっと、踏み止まって耐え抜いてくれた者」だったと、感謝しておられるとは !! 更には、29、30節では、やがての祝福まで約束しておられるとは !!
お別れに際しての感謝は、忍耐して下さった主に捧げるべきものであるのに、主から感謝されているとは !!

※ キリスト者の在り方は、この世でまかり通っている原理とは相容れないものとの自覚の下、主に倣う者でありたい。

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2018年11月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 96


ルカの福音書22章7節〜23節

先週は、主が二日後には弟子たちとの最後の晩餐を予定しておられる頃の、主を取り囲む周囲の状況に注目した。
2節で、イエスを殺すための良い方法を探していた宗教家たちの、苛立ち露わにされているのが見える。
その彼らにうってつけの人物、3節 「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」が現れ、彼らは大歓迎した。イスカリオテが「十二人の一人」だったと明記されていることに、聖霊の憂い、悲しみを読み取りつつ、何がユダをしてこの 《 悲劇的で大それた行動に出させた 》 のか、それを解く鍵が、3節 「ユダに、サタンが入った」にあったと見た。 

@ サタンの介入について、ヨハネは、ユダにサタンが入ったのは段階的だったと伝えているが、サタンは、神の子たちの神との関係を羨( うらや )み、隙あらばその関係に溝を作り、破綻させることを目的として、じりじりと誘惑するということ。

A サタンの介入は避けられないが、もしユダが初めに感じた 《 肉性の事実を黙認し、放置し続けさえしなければ 》 致命的な結末には至らなかった。にも拘らずユダは・・・。
ユダの肉性はつい先に 《 ナルドの香油を惜しげなく主に注いだマリアの献身 》 が光となって露呈されたが、偽善を装って、マリアを咎( とが )めた為、主の叱責を受けることに。
ヤコブ 1章15節 詳訳 「悪い欲望が身ごもると、罪を生み出し、罪は成熟して死をもたらす」方向に向かう。悪意を抱きつつも 《 しらを切って 》 最後の晩餐の席に臨むユダの結末は闇であっても当然なのだ。

※ 良心に従わない末路の恐ろしさをユダに見て警戒を !! と。


今朝は、主が15節で、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」と言われたその最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約について 》 考えたい。
この場面について、パウロの説明がある。
コリント人への手紙 第一 11章23〜26節で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『 これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、同じように杯を取って言われました。『 この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と。
教会は主が制定されたこの聖餐式を、その初めの日から二千年の長きに亘( わた )って執り行って来て、今日に至っている。
教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係が結ばれて存在している群れ 》 なのだ。
この最後の晩餐の席を弟子たちとでと切願されたのは、弟子たちと、そしてやがて弟子たちの宣教によって救われるであろう人々( ユダヤ人のみならず、異邦人、そして私たち )との間に、この 《 新しい契約を結ぶという厳粛な画期的な出来事 》 が遂に成立することになると伝えたかったからなのだ。

主が個人的慰めを求められての場ではなく、厳粛な契約を結ぶ為の極めて重要な聖なる場だった。
この過越の祭りは、430年に及ぶ滞在を経ての、イスラエル人のエジプト脱出( 奴隷解放 )を記念する日である。イスラエル人の出国を許すまいとするエジプト王の頑( かたく )なな拒絶に鉄槌を下された神の裁きの日、エジプトの家々からは長子の死を泣き叫ぶ声を聞く中、屠られた小羊の血を見る時、その家を過ぎ越すと言われて、鴨居に血を塗るようにとの指示に従ったイスラエルが救出されたあの夜。
この時のモーセ以来、1500年守られて来たこの過越の祭りは、実に翌日に控える十字架を予表したものであり 《 わたしは実に明日、その実体として肉を裂き、血を流す 》 ことによって成立する契約を結ぶ為に、最後の晩餐を設けられたのだ。
へブル人への手紙 9章15節 「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖( あがな )い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです」と、主が晩餐を ※ 15節 《 切願 》 しておられた理由は、ここにある。
主の言われる、20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた。契約には、契約を結んだ両者との間に、条件が取り交わされ、それを守らなければ刑罰が伴う。創世記 2章16、17節 「しかし・・・食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」。初めの契約は、アダムとエバの違反によって破られ、違反には「死」が報いとなった。

しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。
実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります」と。他の弟子たちの、23、24節 「互いに議論をし始めた。また・・・だれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」様子にも不甲斐なさが。
しかし主にとっては、聞き手の現実が如何にあれ、語るのに支障はなかった。15節 「苦しみを受ける前に・・・この過越の食事をすることを、切に願ってい」たのは、実に 《 そのあなたがたとなのだ 》 と言われる。
何故支障がないのか ? 主が、32節 「・・・あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われても謙虚さがなく、33節で豪語するペテロは、主を裏切る。しかしそれと知って、32節 「あなたは立ち直ったら」と言われる主。コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。

※ 主が成立させて下さった「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい。

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