2019年04月20日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 5


ヨハネの福音書1章29〜34節

先週は、6〜8節に登場するバプテスマのヨハネが唯、「まことの光」である主を証しするために遣わされた人物であるということと、彼の立ち位置こそ、キリスト者の立ち位置であることとを学んだ。
その立ち位置については、「荒野で」明確な召しに与るや働きを始めたB・ヨハネを問題視する宗教家たちから、質問攻めに遭遇することになるが、20節 「ヨハネはためらうことなく告白し、『 私はキリストではありません 』 と明言した」姿勢から学んだ。

@ 自己否定における潔さ。
キリストに帰せられるべき栄誉を、ほんの少しのことからでも自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
23節 「私は・・・ 『 ・・・荒野で叫ぶ者の声 』 」にすぎないと断言し、26、27節 「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、僕の役割ですら与り得ない者だとする謙遜さ。

A 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。
確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要なしとし、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すべきとする弁え。

※ パウロの告白同様、ガラテヤ6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい、と。


今朝は、宗教家たちからの詰問に対応した翌日のこと、29節 「ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『 見よ、世の罪を取り除く神の子羊 』 」と叫んだバプテスマのヨハネの、信仰の姿勢に学びたい。
誰がそこに居合わせていたのか? 翌日、35節 「ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた」とあることから、名前を伏せている使徒ヨハネは、40節 「アンデレ」と居たと考えられる。この二人は、再度、B・ヨハネの、36節の「見よ」との指差しによって、主の最初の弟子となるが、この「見よ」に掛けたB・ヨハネの思いを、私たちはどの程度理解し、その思いに近づけるだろうか。主の出現を待ち望みながら、来る日も来る日も情熱を傾けて来た たった一つの使命感が、この「見よ」に込められているのだ。たった一つの使命とは、8節 「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来た」ことだが。
B・ヨハネが実に、「証しするため」との一事に掛けていたとする真価は 《 アンデレと使徒ヨハネ、次いで三人が主の弟子として従うことになる 》 この動きを喜び、3章26〜30節 「 『 ・・・皆があの方のほうに行っています。』 ・・・あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、ここにある。先ず愛弟子たちが、更には皆が、「あの方のほうに」という現象を至上の喜びとし、生き甲斐だとするところに明白なのだ。
B・ヨハネについて考えた際、彼の立ち位置こそ、主の証人であるキリスト者の立ち位置だと学んだが、彼をして確実に人々を主に導いた信仰に学んで Message としたい。

B・ヨハネが、30節 「私の後に一人の方が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです」と言っているのは、1章1節 「初めに」の意味で、神ご自身だとの礼拝の告白である。肉体的誕生においては、主の母マリアへの受胎告知で御使いから、「・・・今はもう六か月です。 ルカ1章36節」と言われており、主より半年先に誕生しているのだから。
又、31、33節 「私自身もこの方を知りませんでした」とは?
面識がなかったということではなく、主の母マリアが受胎告知後、三か月身を寄せたのが、彼の両親の許だった関係から、公的生涯に導かれるまで互いの30年の間の何処かの時点で接触があったと考えるのが妥当ではないか。従って、互いの誕生の経緯をそれぞれの両親から聞かされてもいる筈。とするならば、この「知りませんでした」とは、厳密に考えて、何を意味しているのだろうか?
B・ヨハネが言った、33、34節 「・・・知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『 御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのですに示唆が。
両親から聞くことによって? 主と直接面識を持ったから? でもなく、B・ヨハネは淡々と為すべき分を果たしつつ、主からの直接的な顕現に与ることによって知ったのだ。

主の先駆者という途方もない責務を遂行するのに、神は人類の贖いという大事業の為、責任を持ってB・ヨハネに臨まれ、彼は確固たる信仰に導かれたのだ。さながら、出エジプト事業に召されても、自らの無力さを理由に何度も辞退するモーセを、顕現による派遣に導いたのに同様!! 知識的納得によってではなく、圧倒的権威に裏付けられての派遣に与った。
B・ヨハネは、これまで聞いて信じて来た主への確信をより鮮明にさせられ、強固なものにさせられ、遂に、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」との宣言をもって福音のメッセージを叫んだ。B・ヨハネをして、殉教死をもってその使命を全うさせた原動力は、この確信だった。私たちの宣教の原動力も又、この確信なのだ。ヨハネは、近付いて来られる主を・・・

@ 屠られる「子羊」としての生涯を生きるべく祭壇に向かって、一大決意を固められたお方として見た。

全人類の身代わりの死を遂げる為に、無傷の子羊として、「今、わたしはここに来ております。・・・神よ、あなたのみこころを行うために。 へブル10章7節」との決意を新たに!!

A 屠られる「子羊」として捧げられた暁には、34節 「聖霊によってバプテスマを授ける」お方として見た。

単に犯した罪の赦しに留まらず、罪の性質・腐敗性の全てを焼き尽くす聖霊を注いで、聖霊を住まわせて新しい人とし、全人類をご自身の為に買い取るお方との体得!!

※ この「見よ」は、世に宣言すべきお互いの叫びと覚えたい。

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2019年04月13日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 4


ヨハネの福音書1章6〜8、19〜28節

先週は、6〜8節で登場させているバプテスマのヨハネを今朝からの学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、9〜18節で更に、「まことの光」として紹介している内容に学んだ。
この世が与えてくれる「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越した「混じり気がなく完全な不変の光」と言い、それを「すべての人を照らす ⇒ ルカ2章34、35節【心を刺し貫き、思い全てを露わにする剣】」だとしている。そのお方が9節a’ 「世に来ようとしていた」は、旧約から預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今現実になろうとしている、の啓示。
にも拘らず、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」と、その究極が、主を「十字架につけろ」の声に。
ここで、12節 「しかし」と、大多数がこの主を拒絶したとしても、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与る人々がいるという喜びを伝えているところに学んだ。「神の子どもとなる」とは、罪を犯したお互いには絶望的だったが、唯、13節 「神によって」可能となったと!!

@ この特権は、唯、14節a 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑による。
実際的に、18節 「・・・神を解き明かされ」、14節b 「栄光を見」、16節 「・・・恵みを受け」、その恵みとは、律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方の意。

A この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられる。
弁解せずに真実に悔い改め、救い主をお迎えする謙虚さだけが必要。

※ 3章19〜21節 《 光を憎むか愛するか 》 の二者択一のみと。


今朝は、前回、今朝からの学びに委ねていた人物、6、7節 「神から遣わされた一人の人・・・この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と紹介されている 《 バプテスマのヨハネ 》 に注目したい。
ヨハネの福音書は、彼が何の為に現れたかを明確にしている。
7節 「証しのために来た。光について証しするため」、8節 「光について証しするために」と、紛れもなく唯、「まことの光」である主を証しするためにと。それは取りも直さず、7節 「彼によってすべての人が信じるためであった」と。
使徒ヨハネが明らかにしている 《 バプテスマのヨハネの立ち位置 》 こそ、実に、キリスト者である私たちの立ち位置であり、キリストの証人として弁えるべき分であるが、B・ヨハネは実に、使徒ヨハネの言う通り、この使命感に生きた人物であったと知ることが出来ることは幸いである。
B・ヨハネが公的奉仕に携わった経緯について、ルカは※3章2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と伝えているが、この「荒野で」という姿勢に、彼が如何に、父ザカリヤによって幼児期から聞かされていた任務【1章8〜17節】を厳粛に受け止めていたか、主を畏れつつ待ち望む人物であったかが分かる。いつ? 何を伝える? 先駆者としての弁えは? を、世の喧騒を避けて、単独「荒野」で待ち望んだのだ。
彼を紹介する使徒ヨハネの証言は紛れもない現実となり、彼は主からの賛辞を得て( マタイ11章11節 )姿を消すことになる。

「荒野で」明確な召しに与ってから公の場に出て間もなく、彼の評判は瞬く間に拡がりを見ることになり、救い主を待ち望んでいた宗教家たちを脅かす存在となって行った。
パリサイ人たちが派遣した人々とのやり取りから、如何に彼らが苛立っていたかが分かる。19節 「あなたはどなたですか」、21節 「それでは、何者なのですか」、22節 「あなたはだれですか」、25節 「なぜ、あなたは・・・」と浴びせる尋問は、決して好意的ではなく、目障りだからである。
派遣された人々に※20節 詳訳 「彼は告白し、否認することなく〈 真理を認め、それを隠そうとはしないで 〉、『 私はキリストではない 』 と告白した」を鍵に、主の証人としての毅然とした態度、在り方を学びたい。

@ 自己否定における潔さ。

B・ヨハネのこの告白は、救い主を待望していたユダヤ人から “ もしやこの方が救い主なのだろうか? そんな筈はない ” と、非難めいた気持ちでやって来た彼らであると察知した上での答え。この彼の出方に、彼が如何に 《 主をのみ印象付けようと、注意深く生きていたか 》 を垣間見る。
ほんの少しでも、キリストに帰せられるべき栄誉を、自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。
その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
a. 23節 「私は、預言者イザヤが言った、『 主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声 』 」ですと、ことばなる主を届ける唯の声にすぎないと。
b. 26、27節 「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、全幅的信頼を持ってお仕えする唯の、否、最も賎しい僕にすぎないと。

A 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」に見る 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。

確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物ではある。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要を感じなかったのだ。
彼は正しかった。後、言われた主のことばに注意したい。
マタイ11章14節 詳訳 「もしあなたがたが喜んで受け入れる( 承認する )ならば、このヨハネこそ【御国に先立って】来る筈になっていたエリヤである」と言われた断りを。何という知恵、賢明さを見ることか!! 私たちはどう応えるだろうか? はい、その「エリヤです」と言うのだろうか?
主の言われるように、「喜んで受け入れるならば」のことで、敢えて言う必要はなく、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すれば良いとの分別。

※ パウロの告白同様、ガラテヤ人への手紙6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい。


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2019年04月05日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 3


ヨハネの福音書1章9〜18節

先週から本文に入り、先ず、冒頭の聖句に注目したが、「アブラハム」から始める 『 マタイ 』、唐突に福音宣教から始める 『 マルコ 』、処女マリアによるベツレヘムの家畜小屋での誕生から始める 『 ルカ 』 とは違い、主を「ことば」なる方、存在の始まりはなく、永遠の過去から存在されたお方として紹介している点に 『 ヨハネ 』 の深遠さを覚えた。永遠の過去から存在された「ことば」なるお方は・・・

@ 1節b 「神とともにあった。・・・神であった」お方。
この「あった」とは、 《 受肉以前、神とともにあり、神であった。受肉以降も神とともにあり、神である 》 の意で、18節 「父のふところにおられ・・・」と表現される親密な関係である。

A 3節 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」と、いのちの創造者。
へブル1章2、3節 「御子によって世界を造られました。・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます」、同11章3節 「この世界が神のことばで造られたこと・・・」とも。
それは、ヨハネ1章4節a 「この方にはいのちがあった ⇒ いのちの源( 肉体的生命、霊的生命 )」からだと。更には、4節a’ 「このいのちは人の光であった」とあり、その後の歩みにおける「光」、今日の歩むべき道、生きる目的、地上生涯の道のりのみならず、やがて迎えられる永遠に向けての全てを照らし導かれる。しかも、5節 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とは、何という希望。

※ 大胆なこの書き出しに、主への新たな信頼を寄せたいと。


今朝は、ヨハネが「ことば」なるお方を「人の光であった」とした紹介を中断して、6、7節 「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と、バプテスマのヨハネを登場させているが、彼については、後、19節 「さて、ヨハネの証しはこうである」と出て来る時の学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、より詳細にしている9〜18節の聖句に学びたい。
先に、「ことば」なるお方である主を、4節 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」と伝えていたが、9節では更に、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と言われている。
どの時代、又、何処にでも、人々に何らかの良き感化、影響を及ぼす人物が出没して来たし、今も、これからも現れはするし、優れた書物も世に送り込まれてはいる。又、それぞれの道、学問を究めた人だからこそ語ることの出来る優れた名言、格言的言葉もある。人はそれらによって感動し、「光」を得たと言う。確かに「光」となり得たし、なるだろう。
しかし記者ヨハネは、それらの「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越させて「まことの光」だと言った。
この「まことの【詳訳:混じり気のない、完全な、不変の】光」を「その」と言って、「すべての人を照らすまことの光」である主だからだ、とした。この「照らす」は、ルカ2章34、35節 「多くの人が倒れたり立ち上がったり・・・人々の反対にあうしるしとして定められ・・・あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・。多くの人の心のうちの思いが、あらわになるため」の意。

この初代教会から始まった宣教の歴史と、今日ももし福音に根差している教会、キリスト者にこうした現象があるならば、それこそ聖霊によって告げられたシメオンの言葉の徴。
9節a’ 「世に来ようとしていた」とあるのは、旧約聖書に長きに亘って預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今、現実になろうとしているという、実は厳粛な啓示である。
アダムが神との契約を破って後、神からの【※創世記3章15節】という約束が今、果たされようとしているということ。この日について、待望され続けていたにも拘らず現実は、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」とあり、その究極が、主を「十字架につけろ」の声なのだ。そうすることで、神を敬っているとする人々の手で。
ここで今朝は、12節 「しかし」に注目して Message を。
この「しかし」とは、大多数がこの「まことの光」である主を拒絶したとしても、イザヤの「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。53章1節」と悲嘆に暮れて言わざるを得なくされた現実があったとしても、『 ヨハネ 』 は、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与った人々がいるという喜びの証言なのだ。
「神の子どもとなる」というのは、13節 詳訳 「彼らの誕生は血による( 肉体的血縁関係 )のではなく、肉の願い( 肉体的な衝動 )によるのでもなく、人( 親 )の願いによるのでもなく」人間的には絶望的ではあるが、「神によって」と、新生を生み出す力は神以外にない、神からであると。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ・・・ ローマ人への手紙3章23節」なかった者に、「神の子どもとなる特権をお与えになった」とは!? 自らが扱われる日々、いよいよ自らを知らされるその都度、感動を新たにするのでは?

@ この特権は、唯、14、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑によると覚えたい。

詳訳 「ことばは肉( 人間性を持つ者 )となり、私たちの間に幕屋( 彼の肉体という天幕 )を張られた。しばらく住まわれた」とある。文字通り、乳飲み子として母マリアに育てられる期間を過ごされ、公生涯に入られるや、募られた弟子と生活を共になさりつつ、人々の必要に応じられた。
人々は、18節 「・・・神を解き明かされ」る主に、14節c’ 「恵みとまことに満ちておられ」る栄光を身近に見つつ、16節 「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のだ。律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方として。

A この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられると覚えたい。

自らの罪人としての正体が明るみにされた時、弁解せずその自らの罪の事実を悔い改め、そこからの救い主として、主をお迎えするという謙虚さだけが求められている。

※ 3章19〜21節 「光よりも闇を愛し・・・光を憎み・・・」の姿勢だけがこの特権を退けると覚え、唯々、謙虚でありたい。

posted by luckyfachan at 21:42| Comment(0) | ヨハネの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする